徒然なるままに日暮、パソコンに向いて・・・
只菅
聖下の御無事を祈祷する哉。
2006年11月28日 15時38分36秒
………。
 変な時間に寝入ってしまったものだから、夜明け前に目覚めてしまった。

 今月9日の日記の冒頭に記した某管区責任者の呆れた発言と共に煩伝して居た冊子を読んで診たが、素晴らしい程迄の偏向振りで在る。

 凄まじい程の左旋回振りと云う醜態を晒して憚らない姿勢には呆れる他は無い。

 此の冊子は、或る勉強会に招かれた有識者の発言と、用いられた資料を編纂したものらしいが、本文を読む前に有識者と参考文献の欄を診て、大方の論旨を想像出来たし、又、現に想像通りの論述だった。

 はっきり言って、日本人としても公教会徒としても唾棄すべき内容の代物なので在る。

 こんな得体の知れぬモノが公教会の公式見解の規範で在る等と世間一般に誤解されては堪ったものでは無い。

 良心的・良識的保守を自称、或いは自認される方々の対処を期待して看たいのだが、最少の読者しか獲られぬ同人誌で気を吐く程度の対処で無い事を願って看る。

 それから、先に左旋回の醜態と書いたが、左に急旋回をした訳では無いのだから、其れを良心的に傍観して居た自称保守の良識の基を、是非とも知らしめて頂きたいとも願って居る。

 期待するだけ無駄だとは思うが、先ずは御手並を拝見させて頂く事にする。
2006年11月24日 04時30分47秒
反省
 何時もの不躾メイルに因って誤解を生じさせてしまった様だ。
 誤解を誘発させるメイルを認めた己の無徳無能無孝を恥じて居る。
2006年11月20日 20時56分01秒
アイタタ……
ヴィーノ呑み過ぎて頭が痛い…。
自劫自得とは将に此事だな。
自滅とも云う。
やっぱりアホだ……
2006年11月18日 23時57分55秒
教基法改正
 実は、教基法改正には反対なので在る。
 今回、衆院を通過した案と同じモノだと思われるモノをナナメ読みした事が在るが、「こりゃ、ダメだ…」と感じたからだ。
 勿論、教基法改正それ自体には賛成と云うか断固為すべきで在ると思って居るので在るが、現在案とおぼしきモノで危惧して居た最大の点は、歴史が断絶した侭の状態に於いて愛国心が高揚為れる事が危険だと思われるからで在る。
 大東亜聖戦終結以前の日本悪玉論と云う東京裁判史観が払拭為れぬ侭、愛国心のみが一人歩きをする愚に危惧を覚えるので在る。

 北韓に吠え起て、支那中共に牙を剥いて唸るならば、大米帝国にも耳を岨立てて唸る位の気概を持たなければ、真の祖国愛とは云えまいが、実際には大米帝国には尻尾を振り捲りの恥べき状態で在る。
 此の大米帝国への尻尾振りを一層大っぴらに出来る為に教基法を改正するのには反対なのだ。

 日米安保なんてイザと為ったら如何に転ぶのか判らん代物で在るから、日本が陸海空軍を「再設」する迄に大米帝国を利用して遣る心算で事を焦らず急ぐべきだと痛切に感じて居る。
 だからと言って、大惨事に為り兼ねない見切り発車はして欲しく無し、党是で在った筈の憲法改正さえも未だにおぼつかない現政権の与党第一党の事で在るから、事後には微細な修整だけで済む様な案にして欲しいので在る。


 六十数年前には、日本海の向こうにばかり敵が居たのではない事を思い出して欲しい。
 ならず者を不法な手段で輸出し続けて居る東亜混迷の元凶と対峙するのも当然な事では在るが、協定に因ってならず者共を駐屯させ、基地周辺住民への狼藉は云うに及ばず、果てには殺人者まで匿い帰国させる国とでも、イザと云う時には対峙する気概を政権政党政治家には持って欲しいのだが、衆院通過案擬を眺めた限りでは無理っぼいのが残念で為らない。

 東京裁判に断ち切られてしまった、祖国を護った英雄と己との系譜が在ってこそ、はじめて真の愛国心と為るのではないだろうか。
 結党時に大米帝国の機関から莫大な資金提供を受けた現政権第一政党に執っては党是かも知れないが、大米帝国への忠節を誓うのは、日本人としての健全な愛国心では在るまい。

 今般の教基法改正は、降り掛る火の粉を払う処か蝿や蚊さえも払えない愚条で在る九条を含む現憲法を維持し続けて来てしまったツケを払う鏑矢に為るのは充分に解るのだが、危惧を覚えざるを得ないのも事実なのだ。

 マトモな反論さえ出来ぬ野党は、政治家としての矜持が無いらしい。
 欠席なんて失態を働くのは、実に有権者を馬鹿に為て居るから出来る事ではないだろうか。



 蛇足だが、同様な事は公教会にも当て嵌るのだが、一々証を示す迄も無いだろう。
2006年11月18日 23時52分01秒
ふるさと
 九月末に我が故郷を訪問された或る貴人の案内役を仰せつかり、十数年経りに帰郷した事は既に述べた通りで在る。

 田舎と言っても一応は県庁所在地なのだが、兎にも角にも田舎が嫌で嫌で仕方がなく田舎を飛び出した筈が、今では其の嫌で仕方がなかった事が却って田舎の良さだと云う事に改めて気付かされた。

 残念乍、幼少の頃に駆け擦り回った辺りには往けなかったが、それでも其所の付近に差し掛かった折りには、懐かしさと云うよりも深い感動と大いなる誇り以って「我が故郷で在る」と貴人に伝えたので在った。


 改めて想い還して診ると、嫌で飛び出した筈の田舎への帰省が、嬉しくて堪らなく、待ち愛しい楽しみに変わったのは、出奔した年の盆休みだった。

 郷里を目指す夜行列車に身を任せると、帰郷する安堵感に包まれたのと、心地好い軌線の音と振動に揺られた為か、たちまち眠りに落ちたものだったが、丁度、明け方頃、列車が県境を越えて故郷に入った頃には、不思議な事に何時も目が醒めたものだ。

 僅か数ヶ月経りの故郷と家族が本当に愛しく、対面するのが少しばかり気恥ずかしくも感じられたのを昨日の事の様に思い出す。


 今となっては、帰郷して迎えに来る家族も帰る家も無くなってしまったが、故郷と云う漠然としたものが確実に迎え容れてくれるのが何よりも嬉しかった。

 山や海は云うに及ばず、空気や光でさえも優しく迎え容れてくれたと実感して居る。


 再び、故郷の優しさに包まれに往けるのは何時に為るかは判らないが、それでも今から帰郷を楽しみにして居る。


 agimus tibi gratias Deus!
2006年11月17日 23時22分45秒
爾公教会徒ならば
常に御聖体を拝領出来る準備、及び死を迎える準備が出来て居て然るべきで在る、とは恩師、師匠、巨匠から度々諭されたし、三師からの遺言だと思って居るし、将に名言だと思って居る。
 一層努めよう。
2006年11月16日 23時52分36秒
何時の間にか……
世に「何を信じなければならないか」を知らしめる使命を帯び、実践して居た筈の公教会が、何時の間にか、世が「何を信じたいのか」を模索し、且つ其れに迎合する機関に成り下がろうとして居る事に眼を向け注意するべきだと思う。
2006年11月16日 23時26分40秒
オイオイ…
 御手前を評する時に「良識的」とか「良心的」等の後に「派」何て詞を付け足して、御手前が恰も善良な人間で在るかの様に印象付ける習性と云うか癖が在る輩が居る。

 そんなのに限って手前の品性下劣を隠す為に「良識」とか「良心」とか云う詞を事更に強調するのだから、此の様な言葉を己に向かって連発する輩はスルーするに限るし、現に、特に教会関係ではヘンなのが多すぎるので取り合わない事にして居る。

 大体、チミの吐く「良心」って何? ソイツは程度の差さえ在れ度も、人間で在れば誰でも持って居るモノだ、本来は。
 其れ共、ワザワザ良心を自己に植え付けなければ為らぬ程迄に破綻した奴なのか?

 んで、其の後に「派」を付け足して何のツモリだろうか?
 其んな派が実在してんのか?
 そうだとしたら、良心派や良識派の派閥の骨子や構成して居る人員はどうなのか等々を、具体的且つ明確に示して貰いたいものだ。
 が、単に派閥に属して居る錯覚を抱いて居る様だけど思われるので、妄想オタ如きに其を求めるのは酷な事かも知れないな。

 所詮は醜悪な態の守旧奴の集まりに過ぎないだろうし、しかも擬似的なモノで在る可能性が高く、詰まる処は烏合の衆で在る事には変わりはないで在ろう。

 大体、良心派・良識派が大勢を占めているのならば、垢に被れた左翼クズレが狼藉を働く隙等が無いのだが、如何なものだろう?

 あっ!良心派・良識派がサイレント・マジョリティだってーのは駄目ね。
 良心や良識が在る人間は、狼藉を放置する訳がないもんね!

 良心的保守や良識的保守と自称して止まない輩が、体制へ癒着と云う悪癖を改める処から始めねば、天主公教会に於ける眞の復興は為るまい。

 良心的保守、または良識的保守等と詐称してないならば、公教会を「人主」的会堂から「天主」的聖堂に戻すのに奔走するのが保守ではないだろうか。
 「人を主」とした儀式を行うのは会堂で在り、全ての規範は人が中心に据えられ、全ての概念の中心に据えられて居るのも人で在る。
 原理・原則の基に「天主」を据えた儀式を行うのは、天主の宮居で在る天主堂、つまり聖堂で在り、全ての規範・法則は天主を中心に秩序附けられ、あらゆる概念の中心に天主が居られるので在る。
 典礼でのラテン語の使用も歴史的・地勢的経緯が在るにせよ、天主を向いて居たが故に採用され継続され、グレゴリオ聖歌等は発展の過程で生まれて来たのだが、人を基とした会堂で、人を主としたノリ(儀・式・典・禮)を用いて、幾らラテン語やグレゴリオ聖歌を用いて儀式を其れらしく荘厳に執り行っても、単なる自己満足に過ぎず、却って典礼の多様性と云う濫用が生む逸脱を許容し、其れに加担して居る事に繋がり兼ねないのだ。
 本来用いられねばならぬ地位に在ったラテン語の首位性が、何時の間にかオプションの一選択の地位に迄引きずり降ろされた事にさえ気付かずに、或いは気付けない位程度の低い輩が、御自らを良識的保守だと吹聴する姿には、心底から笑わせられる。
 哀れな事だが、良心的保守派と自称される自己偏愛者が許容して居られる典礼の多様性と云うオプションの選択肢の一つ一つに、ラテン語が在り、グレゴリオ聖歌が在るならば、其の多様性と云うマヤカシとオプションと云う曖昧さに因って、唾棄すべきアンパン・ミサやサンダル・ミサをもオプションの選択肢に据えられる事を究極的に許容してしまう事に為るのにさえ気付けまい。
2006年11月15日 23時56分54秒
ウルトラ・モンタニズムetc...「1」
「ウルトラ・モンタニズム」と云う概念が在るそうだ。

 確認はして居ないが、委細はWeb上で調べられると思うので敢えて記さない。

 んで、僕の主観からすれば「ウルトラ・モンタニズム」的に見える機関誌が在る。

 勿論、此の誌面を埋め尽して居る論者や識者と云った御歴々は、御自らが「ウルトラ・モンタニスト」だとは認識して居ないだろうし、此の機関誌を支持する方々も又然りで在ろう。

 此の点で僕と同じ意を抱く方が居られるとするならば、それは自称保守と云う御歴々の言う処の謂わゆる「改革派・革新派」の方だと思う。

 だが、前の日記に書いた様に僕の立脚点は「改革派・革新派」とは全く異なるし、自称保守と云う守旧派に近似して見えるものの、実の処は其とも異なる位置に立脚して居る。

 だからこそ、臆面もなくヌケヌケとウルトラ・モンタニズム的だと少々揶揄を込めた軽口を敲けるので在る。

 端から視れば傲慢極まりない輩に見えるだろうが、納得為らぬ事には迎合出来ぬ性分故、そんな事は百も承知の上で在る。

 では、何故ウルトラ・モンタニズム的なのかと言われれば、前回の日記に認めた通り、某高位聖職者の逸脱を追及し糾弾はしても、其の聖職者を高位の位階に推薦した者の責任や実際に任命した者への責任追及が為されない理由は、彼等がウルトラ・モンタニズムの信奉者で在るが故に、意図的に責任追求を回避しているのではないかと思われるからで在る。

 追及の矛先に依っては二枚舌も厭わない処か、端から追及しない出来ない、謂わば御都合主義を用いるのは勝手だが、教理・教義を歪曲してタブーを創り挙げて、其れを拝し奉ってゐる様に見える、其の滑稽な姿がウルトラ・モンタニズム的なのだ。

 其の上、今頃何の彼の言って保守を装っても、公会議の意向を受けて種々の変換が為されて居た当時、諸変換と云う諸改悪を「革命的出来事」と謂い両手を挙げて推進して居た方々が執筆者の中に視えたりする。

 憚らず臆する事無く保守を自称する者ならば、「革命」と云う言葉が何を意味して居るか理解して居る筈で在るから、確信犯的に革命的出来事を支持した言動だったと云われても致し方在るまい。

 公会議が産み落とした成果、公会議後に創り堕された結実こそ、其の時前迄の近現代の教皇様が戦い排斥し続けてゐた近代主義の申し子で在り、本来ならば在っては為らぬ事が堂々と導入され、実現される至った故に画期的で「革命的出来事」なので在る。

 公会議が齎した害悪が猛威を振って居る今に至っても、彼等は当時から先頭に立って公会議後の日本の教会を革命的に変換し続けた「自負」が在る為か、己々のミス・リードだけは直視せず、主の公教会を守る拠りも自らの業績を死守するのに懸命なのではないかと、僕の目には映ってしまうので在る。

 本来ならば「自負」するのではなく「自責」を感じ何らかの対処に奔走するのが、保守を名乗る者の執るべき態度だと思うが、「転向保守」成らざる「変節保守」程度の気概しかない態たらくの輩共に、責任に対する義務を求めても所詮は無駄な事なのかも知れない。

 故に、「ウルトラ・モンタニスト」の機関誌では、公会議を痛烈に非難したマイケル・ディビス等の説を、公会議後体制の旗手で在った自己に責累が及ばぬ程度に焼き直して自己弁護に終始するしか術が無い、と邪推して診る事が出来得る御方も居る。

 マイケル・ディビスで思い出したが、彼は「誤ッ否」か「罵ッ鬆ー裸」か「萠呪」か「拏咒」の何れか又は全てに対し注意を喚起する説を認めた事が在るらしいのだが、此等の運動の狂信者又はシンパは、自らの奉ずる「恰も信仰箇条に匹敵する或いは同等の凶信」が攻撃されたとして、在ろう事かマイケル・ディビスをゴシップ作家だとケチョンケチョンに、まるで現教皇様に噛み突いた回教徒の如く為り振り構わず罵った事が在る。

 だが、他方では同一人物と思われる方が「ウルトラ・モンタニスト」の機関誌に載って居たマイケル・ディビスの説をソースとして採用した論文を知ってか知らずか支持して居たり、或いは此の論文を自らの言説の根拠にしたりして居たのだから呆れるしか在るまい。

 此んな得体の知れぬ「ごしゅつげんマニア」の類も含有した烏合の衆に落ちぶれた守旧派が、自称乍保守を詐称するのだから、此方としては同じにされてはたまったものではないので在る。
2006年11月13日 23時30分00秒
ウルトラ・モンタニズムetc...「2」
 そう言えば、マイケル・ディビスをゴシップ作家だ何だと噛み突いてた時、此の輩共の中には「自称」良識的保守の執るべきスタンスとして、「譬え真理に反して居るのが明確でも、聖座が排斥しなければ中立を保つのがカトリック教徒の身の処し方」と云う様な論旨を嘘噴いた輩が居たと記憶して居るが、将に噴発モノの言説、それこそ「異端」説で在り、奴等が保守すると嘘噴くモノは何で在るかを明白に露にしてしまった気がする。

 此奴が矢鱈に「良識的保守」とか「良心的保守」等と詐称し、今現在も執拗に詐称して居るらしいので、混同されない様に此方も奴等には事更『「自称」保守』等と謂う名称を用いて区別して居るので在る。


 序いでだから述べるが、「良識的保守」とか「良心的保守」等の詐称が蔓延って居るのは、何も公教会だけではなく、我が国の政治・言論・思想界でも同じなので在る。

 つい先日、合衆国の意向と云う脅喝を受けて尻尾を振った売国奴が、靖国神社内に在る遊就館の或る記述内容を改めさせると謂う暴挙に出た。

 我が国の歴史観は独自の史観で在り、他国の、しかも戦を交した国とでは史観が相容れないのは当然で在る。

 が、相容れないからと言って他国の歴史観を改めさせる傲慢さには怒りを隠しきれないが、祖国の歴史観と云う国の根幹に関わる事柄を易々と書き換える事に喜々として居る唾棄すべき輩が、自らを「良識的保守」とか「良心的保守」等と詐称して居るので在る。

 此等の自称「良識的保守」「良心的保守」もやはりダブル・スタンダードが御得意らしく、支那中共政府が行う史観への干渉へは抵抗するが、合衆国が行う史観の改讒には喜々として迎合するので在る。

 此の態度の何処が保守なので在ろうか?

 何処に良心と良識の座標軸は据えられて居るのだろうか?

 甚だ不可解で在り、且つ、保守を詐称される事に不愉快でも在る。

 僕が『「自称」良識的・良心的【保守】』を似非保守とか、詐称保守とか、単なる守旧だとか申し区別する所以は此に在り、眞に公教会の現状にも相通じるモノが在ると思うからで在る。


 教会の左傾化は、第二ヴァチカン公会議後の混乱時には既に始まって居たので在り、其れを見過ごし野放にして来た御歴々が今に至って左翼偏向した教会の一部分を偉そうに批評する姿は、実に見苦しく感じられる。

 無責任で尊大な御歴々は勿論の事、彼等の言説を聞き齧って有難く拝し奉り固執するだけのチルドレン共には、公会議開始から三十年もの間、孤独い戦い続けた偉人に就いて何も言う資格は無いと断言出来る。

 色々な運動に身を投じて、些か為りとも戦いを継続する事の困難さを味わい、戦対象を見極める力、つまり争点の本質を見極めれる力が少しずつ付いて着たが、此の偉人の深い洞察力と的確な判断力には真に驚かされる。

 何度でも繰り返すが、問題の本質はラテン語のミサを行ったり、典礼でグレゴリオ聖歌を歌う事では無いのだ。

 ラテン語のミサを行ったり、典礼でグレゴリオ聖歌を歌う事がカトリックたる所以の極々一部では在かも知れないが、問題の本質では無い。
2006年11月13日 23時31分32秒
呆れたダブスタ
 今週のカトリック新聞には、またもや靖国神社への誹謗キャンペーン記事が載って居た。
 同じ号には、異端徒や異教徒と手を取り合って平和を祈った事も載って居た。
 前者(靖国)を貶める為に用いた術が正しいものならば、同じ様に後者(平和何たら)を充分に貶めても良い筈で在るが、不思議な事に後者へは称讚の論述しか見えない。
 此処迄あからさまなダブル・スタンダードぶりを晒け出して平然として居る痴態には心底から呆れる。
 保守とは名ばかりの守旧派は、此のダブスタ聖職者をけなす事はしても、此のダブスタ聖職者を管区大司教に推薦した者や実際に任命した方の責任迄は追及しないのも、此又不思議だし、此もダブスタだから呆れるしかない。
 まあ、自称保守なんてのは、所詮自己保身しか能の無いのだから、己のダブル・スタンダードには端から気付くだけの能力が無いか、もしくは気付いても気付かないふりをするか、気付いても己の経歴に疵が着くのを畏れて糊塗するしかないだろうし、現にそうで在るから始末が悪い。
 カトリック教会を護る眞の保守とは、現体制に寄生するしか能が無い体制保守の事では無いのだ。
 地獄でさえも滅ぼす事が出来ないカトリック教会をじわじわと蝕ませる手助けをして居るのが、実は体制保守なのだと謂っても過言では在るまい。
 自称保守と云う自己保身厨が目覚めて、眞に死守すべなのは現体制では無い事に気付かなければ、カトリシズムは益々衰退の一途を辿るだけだろう。

 日本国に於ける東京裁判とカトリック教界に於ける第二ヴァチカン公会議とは、その開催に依って各々に属する者に歴史の断絶をもたらし、各々の座標軸を在らぬ処に据え着けさせ、因って各々に精神的・霊的な衰退をもたらしたと謂う近似が在る。
 我が祖国は、まともな国に為る為に座標軸を据え直す事をし始めたが、カトリック教会の座標軸は突然変位した儘で在る。
 突然変位した体制に固執して止まない守旧派に理解しろと謂うのは未来永劫無理な話だろうが、其所迄硬直して居ない自称保守の方々には回帰する原点を視誤る愚を冒して欲しくは無いと思って居る。

 祖国にしろ教会にしろ、いわゆる右翼的な位置に僕は居る訳だが、各々の歴史が分断され、座標軸が百八十度変わった現体制では革新的な位置、つまり左翼的な位置に居ると思って居る。
 僕から視れば、何処ぞの引退枢機卿を奉り上げてラテン語ミサのイベントを開催して居る方々も、正義と平和を旗印にした社会運動に血眼に為って居る方々も、どちらも現体制に迎合して居るし、現体制側はどちらをも許容して居るので、イベント屋も運動屋も現体制保守で在り、現体制に固執すると謂う意味では彼等は仲の良し悪しは別として同じ右翼同士なので在る。
 なので、狂った座標軸を原点回帰させ、歴史的・規範的な継続性の回復・復興を願う意味に於いては実に右翼的なのだが、狂った座標軸を基にした体制を許容しないスタンスだから現体制では左翼的ですら在ると思う。
 故に、此の様なスタンスに居る者を、プロテスタンティズムの何たるかを履き違えた様な、思考能力が低下した守旧派の御方々はネオ・プロテスタントだとか言って悦に浸って居るらしいが、現体制の小判鮫如きが、大局的視点から視た右翼をプロテスタントと呼ぶ事自体が哀れな程痛々しいし、第一、プロテスタントと云う詞を用いる事自体が現体制への反抗なのだが、それさえも気付けないらしい。

 ラテン語を典礼に用いるとか、典礼でグレゴリオ聖歌を歌うとかが問題の本質では無いし、問題を其に限定してしまうと、ゲバラにマンセーの司祭でもラテン語でミサを捧げるから伝統的なカトリック司祭って事に為ってしまうし、平気な顔をしてインター・コミニュオンを実施する逸脱を犯す団体でも典礼ではグレゴリオ聖歌を用いるから保守的だと云う幻想が吹聴されまくる愚に陥るので在る。

 後十数年も経てば、伝統的な、つまり眞の意味でのカトリック的な良い司祭は絶滅に近くなる。
 秘蹟執行時に確固とした意向を以って執行する司祭の数は危機的な状況に陥るかも知れないのだが、現体制下に於ける権益を保守して来た者達は、有名無実の権威を振りかざして後進の救霊の危機をあおるのを辞めて貰いたいものだ。
 将に此を老害と謂うので在る。
 少なくとも心在ると自負するので在るならば、カトリシズムの復興を眼の当たりにして座死して欲しい。
 カトリシズムの荒廃を座視して来た償いに、老骨に鞭打って奮身して頂きたいのだが、まあ、自らのダブスタに気付かない位に面の皮が厚い面々だから無理だろう。
2006年11月09日 21時39分54秒
街の変化
先日、或る街へ二年振り位で行く機会が在った。
降り立った駅や其近辺には大した変化は無かったが、目的地へ近付くに連れて色々な変化が眼に着き驚いた。

屡通ったマンションの前を通ったが、外壁の塗装工事の為なのだろうか足場とシートにくるまれて居たのが印象に残った。
折角、側に来たのだから顔を出そうと思ったのだが、肝心の目宛ての住人が今は旅行中だったのを思い出し止まる。


その後、用足しに某所へ向かったが、最後の乗り換えにて目的地と反対方向の列車に乗ってしまうチョンボをしでかす。

だが良い一日だった。
2006年10月15日 23時35分02秒
故郷
 僕を育んでくれた頃とは街相が変化して居て、色々な相違が在り屡々戸惑ったけれども、過日と変わる事無く故郷は優しく僕を迎え容れてくれた。
 もうニ度と訪れる事は無いと思い、長い間、帰郷を諦めて居たのだが、或る貴人の旅行の案内人に僕を推挙して下さった御方のお陰で、懐かしい地を踏む事が出来た。
 只唯、天主様と天主様が信仰を与えて下さった事に感謝するのみで在る。

 今宵は感慨に耽り乍、故郷最後の夜を過ごす心算で在る。
2006年09月29日 20時57分35秒
やっぱり
携帯で書き込むのは性に合わない。

 せっかく打ちあがったのに、ボタンを打ち間違えただけで労が灰塵に帰すのは虚し過ぎる。

 十年振りの故郷行きに興奮して、眠れない自分が面白い。
2006年09月27日 23時17分23秒
なれの果て
 眞理を保有し、眞理を述べ伝えると謂う本来の義務と使命をないがしろにし続けながら、無思慮で無節操な異宗教間の対話とやらを展開し、己のアイデンティティさえ述べる事を避け続け、ひたすら譲歩に譲歩を重ね、相手を思い遣り続けた涙ぐましい結果が、教会と聖座への更なるテロ宣告だった訳だ。

 ヤツ等の本流・本筋ではないにせよ、聖戦の為に殺戮を犯せば天国に行けるなんてマヤカシを、この現代に於いてマカリ通させようとゴリ押しをする代物を含む相手に何を対話して居たのか、はたまた、これから何を対話し続けるので在ろうか?

 今回の教皇様の発言が在る前からヤツ等は教会を破壊攻撃し、聖職者や信徒を迫害をし続けて居たのだから、単に教皇様の言葉尻を捕えて、更に遣りたい放題の鏑矢に利用したに過ぎない。

 只、今回の馬鹿騒ぎの中で、やたらにヤツ等の肩を持つ『自称公教会徒』の輩が居るのには笑った。

 やれ向こう様の思想や文化には深いものが在るとか何とか、まるで日本を崩壊たらしめる『文化的【似非】進歩人』の様な事を宣ったらしいが、端からそんなもん屁の突っ張りにもならん。

 無差別な殺戮を行えば天国へ行けると云う狂信が、例えそれがヤツ等の傍流の傍系の傍論だとしても、それを含有して居る思想や文化が眞に深いもので在ると謂えるもので在ろうか?

 百億歩譲って、見方に因ればその文化や思想が深いものに見えたり捉えられたとしても、だから何だと云うのだろう?

 我等の救い主は、霊魂の永遠の救霊の為には『聖父と聖子と聖霊との御名による洗礼』が必要だと仰っしゃったが、天国へ行く為に無差別な殺戮を犯せとは命じて居られない。

 イエズス様の贖罪事業に真っ向から反するヤツ等に理解を示し、天主の救霊の御計画に抗する主義・主張・信条に異義どころか疑義さえ隠すのが愛徳だと云うマヤカシが蔓延って久しい。

 天主の至上命令よりも、彼造物間の取り決めが優先する異常事態が招いた今回の馬鹿騒ぎで在るが、師父ならばどのように為したで在ろうか?

 時代が違え共、本質は何等も変わって居ないので、佳き指針を示してくれるに違いないからである。

 永遠の生命を与えるのがカトリックの信仰だったが、今では地上の楽園構築の為に奔走する事が信仰になってしまった様だ。
2006年09月19日 23時48分37秒
講演会お知らせです、討論会ではありません。念の為。
【講演会】二二八事件の真実


早稲田大学台湾研究所 講演会

講演会:二二八事件の真実――日本人の受難者について

    講演者:阮美[女朱]




 講演者の阮美[女朱](げん・みす)さんは、台湾二二八事件の受難者の家族で、個人として二二八事件の調査にあたるとともに、「阮朝日二二八記念館」(今年閉館)での事件資料公開、出版や放送、講演などを通じて、事件の真相を歴史に刻もうと長く活動してこられた方です。また、いわゆる「日本語世代」である阮さんは、日本と台湾との交流に、さまざまな形で尽力されてきました。

 阮さんは、二二八事件を日本人にももっと知ってほしいと、日本でも講演を重ねてきましたが、このたびは、いまだ知られるところの少ない日本人の受難者に焦点をあて、日本と二二八事件の関わりについて掘り下げる貴重な講演となる予定です。
 台湾、日台交流、戦後史、東アジアの国際関係などに関心のある方々のご参集を募りたいと存じます。



■日 時:2006年9月22日(金)午後5時〜6時30分(午後4時40分開場)


■場 所:早稲田大学国際会議場 3階 第1会議室
     
※会場の案内は「台湾研究所 講演会」と表示されていることもあります。

■参加の申し込みは不要です。当日、会場までおいでください。

     
問合せ:まどか出版
            
Tel:5814-9292

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※閉会後、近くで懇親会を予定:割り勘
2006年09月15日 23時44分58秒
神風吹く
 秋篠宮妃殿下は無事御出産に為され、親王殿下が御誕生になられました。
 我が祖国に賜った御恵みに感謝し、すめらみことの彌榮を乞い願わん。
 天皇陛下万歳!

 此慶賀に際し、「秋篠宮家の慶事なので」と云う理由で、宮内庁は記帳しない方針だとか…。
 此度は内親王殿下ではなく、皇位継承第三位の親王殿下の御誕生で在る。
 他でもない、此の日本国の慶事で在るのにも拘らず、国民の奉祝を表す記帳を阻むとは、一体、何処の国の官庁何だか理解し難い方針で在る。
 羽毛田信吾長官を始めとする宮内庁に、国民の記帳を受け入れる様に促す意味で、記帳実施を申し入れましょう。
2006年09月06日 10時03分34秒
今更ながら…
典礼聖歌って、シッカリ著作権が在るのを知ってビックリした。

 てっきり、作詞・作曲は教会への無償奉仕だとばかり思い込んで居たので、此等をこさえた作詞・作曲家を微塵程度に尊敬していたのだが、些かながらも尊敬してしまった自分に腹が立つ。

 同業者の悪口ばかり言って、小さい業界で罵り合って居る様なプライドだけは人一倍高い芸術家さん達が多く巣食って居る割には、著作権に就いては右倣えなのが笑える。

 下らない罵り合いを繰り広げるならば、神聖にして崇高で霊魂の琴線に触れる様な宗教音楽を競い合って造って貰いたいものだ。

 天主様の御恵みに依り、普遍的な感覚に因って、珠玉と云われる作品が完成した暁には、天主様に光栄を帰し、著作権なんぞ放棄する位の衿持を現して欲しいと、門外漢ながら願ってみる。
2006年08月28日 23時04分31秒
心底から呆れた
 今夜、靖国通り界隈に於いて、国家転覆を画策して居る左翼集団が平和の美名の基にデモ行進を行い、その醜態をさらけ出して居た。

 毎度お馴染の特定アジアの方々を日本観光に誘いつつ動員に用いる姑息な手段の是非は論ずる迄も無い卑劣な行為で在るが、平和を希求する筈の数百名(らしい)の集団が、彼等に抗議する為に居る十人ソコソコの集団に対し、あからさまな挑発をマイクで呼び掛け、それを受けた集団が憎悪を剥き出して小集団に罵声を浴びせ掛け喜々として居た。

 凄い平和だ。

 とても平和を希求する者の行いとは思えない。

 国家転覆を狙う者共の平和なんて、所詮は己の醜悪さを隠すブラフに過ぎないので在る。

 平和を維持する為の軍隊は否定しても、平和と云う御題目を唱えて悦に入る為には敵意を剥き出しにした顔を引き攣らせるのも辞さない輩共なので在る。

 そんな奴等の唱える平和なんぞ空虚なものだ。

 特に、先の小集団に掴みか掛らんばかりに暴れて居た痛過ぎる奴等が居たが、こいつらこそ、かつて中央協議会の中に事務所を設置して居た団体の幹部連中で在る。

 しかも、いわゆる「札付き」なのだそうだ(札付きだったからこそ判明したのだが)。

 こんな奴等に「自発的に」軒先を貸したのか、「騙されて」軒先を貸してしまったのか、それとも同じ穴のムジナなのかは知らないが、今現在でも現役の国家転覆画策活動家で在る札付き共と中央協議会は共働して居るので在る。

 中央協議会傘下の正義と「平和」協議会のホームページに、今夜のデモ行進を告知して居る事からも、未だに両者が蜜月の関係に在る事が伺える。

 此の国家転覆画策者と中央協議会の間柄にも呆れたが、デモに動員された関西の左翼を初めて目にして驚いた。

 世間一般の普遍的な判断によれば間違いなく「ゴロツキ」とか「チンピラ」とか云うカテゴリーに分類される、アウトローの典型的な姿形をした物体が其れで在る。

 何せ関西の左翼なんて初めて見るもんで、パッと見では「何で左翼のデモに任侠系か右翼系が混じっとるん?」と思った位で在る(彼の地では当然の衆知の事実かも知れないが)。

 関西の教会では、そんな方々と日本国家転覆の為に共闘し、日本の伝統や文化を撲滅する為に共働はしても、共に聖福音に生き、聖福音を宣べ伝える為に手を携えては居ないらしい。

 こんなのと共に政治活動を平気で行って居る、関西方面の教会上層部の馬鹿さ加減に呆れたので在る。

 最後に呆れたのが、以前にもその偽慢に触れた事が在るので重複を避けるが、靖国神社からの魂の解放を叫ぶ宗教を隠れ簑にして居る左翼活動家に対して呆れたので在る。

 宗教の別を問わず、各々の宗教行為上に於いてロウソクの火が果たし得る神聖的な象徴及び神聖的な働きを思う時、その神聖的な役割を担い、神聖的な役割を果たすロウソクの火を自らの政治的信条の表明及び実現と云う非神聖的事柄に用いる愚は基より、在ろう事か反宗教をその信条にして居る団体に易々と与し、その扇動に神聖なロウソクの燈を軽々しく用いるのはマトモな宗教者ならば恥じて然るべき愚かな行いで在う(いい加減に眠いので意味不明)。

 また、靖国神社に魂が閉じ込められて居るとし(つまり靖国神社の宗教的教義を信じて居るので在る)、その魂を祖国持ち帰る等と喚き(つまり靖国神社が祀った御霊の分祀)、実際に魂を持ち帰ったと主張した筈の台湾の恥じ晒しが、またぞろ魂を取り戻しにノコノコ日本へ来たそうだ(此の中共の走狗は同じ魂を何度取り戻せば気がすむのか?)。

 再度述べ様。
 靖国神社に肉親や親族の魂が存在すると主張する事は、靖国神社による祭祀を認め信じて居るが故に成り立つ事で在る。
 故に、仏教徒やキリスト教徒や新興宗教徒等が、「靖国に閉じ込められた魂を取り戻す」等と主張するのは、「己の信じる宗教では魂の存在は信じる事が出来ないが、靖国神社の祭祀ならば魂の存在を信じられる」と靖国への信仰を表明して居る様なものだ。

 靖国神社に魂が居る事を信じて居ながら、もう一方でその魂を取り戻すと云う靖国神社を否定すると云う自己矛盾に陥って居る愚に気付けないのは、滑稽ですら在る。

 魂の存在を認めぬ無神論者が靖国神社の魂云々に言及する事自体が、自らの無神論を排斥して居るので在る。

 そんな諸々の事実を目前に見せ付けられて、心底呆れるばかりの今宵で在った。
2006年08月13日 23時36分24秒
この國の主権
 本日の午前十時三十分頃、特定アジアの中の某国の議員八名が、東京九段の靖國神社を愚弄し、英霊を冒涜する目的の為に靖國神社へ押し掛けると云う暴挙に出た。
 此の我が國を舐めきった行動を許す処か、我が國の英雄達を貶める為に来日した奴等の目的を果たさせる為に、あろう事か外務省が靖国神社へ彼の大馬鹿者共を受け入れる様に圧力を掛けたので在る。
 しかも、もっと情けない事に、此の我が國へのあからさまな内政干渉を阻止せんと実際に行動に出たのは、二十人に満たない僅かな人達しか居なかったので在る。
 上は国政を与かる国会議員から下はネットだけが拠のヲタ迄、いわゆる保守を売り物にし、保守に属し与する事に満足を得て居る様な人達の姿は無かった。
 あからさまな内政干渉を易々と許して知らん顔をし乍、恥ずかし気も無く保守、或いは保守的で在ろう事を誇示して居る方々の如何に多い事で在ろうか。
 此は保守を気取る己を偏愛するフヌケた「ナショナリスト」為らぬナルシストの存在は基より、支那の中共を始めとする無神論的共産主義勢力、或いは歴史を捏造し事実を偽造して憚らない南北韓、或いは我が國の精神的破壊をもたらした米国に抗する素振りをしながら、其の内実は其れ等の抗すると称する対象への精神的奴属者に成り下がって居るからでは在るまいか。
 そして、此の精神的奴属者の撒き散らす偽善の害悪が容易く癒されない処を診ると、其の病根が意外に深く悪質で在る事を示唆して居る気がする。
2006年08月12日 23時32分41秒
両形態の弊害
両形態とは御聖体を拝領する時に、御聖体と御聖血を両方拝領する形式の事を指すのだが、その形態に因り涜聖的行為が行われたと云う旨の投稿が、カトリック新聞の投書欄に掲載されていた。
此の涜聖的行為は、両形態を無思慮に濫用した為に行われたもので在ろうし、此の様な不敬極まり無い涜聖的行為を予防する為に、両形態での拝領を西方教会では採用しなくなったので在る。
此の投稿とは別に、或る教会では両形態での拝領時に御聖体に付いた御聖血をカリス以外の処で、水気を払う様にして振るってから拝領して居るオッサンも居るそうだ。
此のオッサンは云うに及ばず、その痴態を許して居る司祭に執っては、御聖体も御聖血もキリストの御体や御血に実体変化する事を信じて居ないのかも知れない。
ex opere operato(だったっけ?)の原則は在るにせよ、意向まで怪し過ぎると果たして此の原則が適用され得るのか甚だ疑問で在る。
2006年07月26日 23時58分35秒
夏風邪に負ける
 昨夜には39度を越えた体温も37度近辺に治まりつつあるが、少々頭痛が酷くて特に咳や嚔をする時が一段と辛い。
 だが、これも恩師に倣って、心から天主様に感謝しよう!
2006年07月18日 22時35分48秒
唯一気になった広告
 カトリック新聞の最新号を読んだ。

 此処暫くは毎号を購い読んで居るのだが、「読んで好かった」とか、「購読して良かった」と思った記事は相変わらず無かった、否、端から期待はして居ないから如何って事はない。 

 だが、第一面の一番下の右隅に気になる広告を見付けた。

 其れは文芸社刊の「世界一やさしい先生にさせてください ‐子どもたちからいただいた愛‐ 中島丹吉著 定価1470円(税込)」と云う御本の広告で在る。

 其の広告中に『公立中学の教師として、如何に日教組や共産主義から離れ、カトリックに回心して「愛の教育」に目覚めていくか、エッセイ風に書いています。』と在るのだが、僕の中では此の一節だけで2千円の値を附けたのだが、定価は其れよりも五百三十円も安いので在る。

 こんな事は滅多に無く、後は購入前に素読をしてから最終的に購入を決めるのだが、今から期待を抱いて居る。

 カトリックと共産主義が相容れない事を如実に、身を以った体験として現して居るかの様な広告が、容共親左系と喧伝されるカトリック新聞に掲載されるのは驚きだし、其の意味では一種の快挙でも在る気がする。

 矢張り広告は重要な収入源なので在ろうが、一時は「カトリック赤旗」と称されたカトリック新聞の過去を思えば、何の感の云っても所詮は単なる御都合主義の新聞社なので在ろう。

 記事内に現教皇様への批判記事が最近では見えなくなったのも、御都合主義の顕れではないだろうか。

 まあ、文句を云い乍も購読して居る僕の様な人間が居るのが、駄目新聞社の駄目な体制を延命させて居る駄目の大元なので在るのは解っては居る。

 此の点に就いてのみ、少しは自戒の意味で反省して視様と思う。
2006年07月15日 23時36分57秒
聖師父
 昨日訪れた聖堂でミサ聖祭に与った後に、初対面の方を敷地内の或る場所に案内する機会を得た。
 勝手知ったる訳ではないので、勘だけに頼って案内してみた処、無事に案内することが出来た。
 そこの中央には聖師父の御像が在って嬉しかった。
 案内を乞われた方はプロテスタントの方で、宗教的な問答を挑まれたものの、聖師父の御助けによりて窮することもなく返答した処、納得して頂けた様で一安心した。
 その後、世間話をして帰途に就いたが、ズッと聖師父が見守って居て下さって居るような安心感が在った。
 聖師父の前で祈り合う約束をして別れた。
 聖堂に戻ったら御聖体が顕示されて居り、暫く祈る事が出来た。
 祈らない理由を尽けて聖堂を飛び出すより、祈る理由を見付けてでも聖堂に留まる心構えを再確認させられた。
 卓上でお茶を片手に空論を繰り返すよりも、額付いて学ぶ方が性に合って居るし、時間の浪費も無く、確実に得るものが在る。
 やはり地に足を着けて居なければ、足元を固める事は能はないのである。
 固めるにしても、時適に応じた固め方をしなければならない。
 霊魂の救いの為に、むやみに硬直せず臨機応変に対応するのが公教会的である筈だ。
 梅雨時の降雨時に泥をこねくりまわす愚は避けねばならない。

 原点回帰(回顧かな?)中の一コマ。
2006年07月10日 23時37分48秒
祈り
 今朝訪れた聖堂で最後に額付いたのは、確か恩師の見舞いの折りだったから十年以上前の事になる。

 聖堂を取り巻く観景は変われど、建物としての聖堂と頭を垂れて祈る人々の姿は旧時のままでホッとした。

 ここでも旧知の方と出会えて励ましを頂いた。

 相変わらず子供扱いされたが、それでも侍者服が赤色から黒色に代った位の変化は認めて下さったし、より一層の祈祷を頂けそうで心強い。

 原点回帰中の一コマ。
2006年07月09日 22時34分35秒
ビック・サイトへ行く。
 今日は、東京国際ブック・フェアを冷やかしに行って来た。

 先ず、入場前の混雑と人込みに苛立つ(反省)。

 んで、やっとこさ入場して某大手出版社ブースに惰貧痴・紐が大々的に宣伝されて居るのが眼に着いたが、来場者はこいつに対してはお腹一杯なのか僕の見た限りでは殆んど素通り状態だった。

 僕も素通りして、お目当てのカトリック出版ブースへ向う。

 がっ、何度目かの再読をしたくて欲しかった「聖フランチスコの小品集」が無くてガックリ…、今年は聖母の騎士社が正規に出展してないから無理だったか……。

 ガックリしつつもブースを眺め廻りつつ、何気なくお向かいさんのブースを見ると…………何と!カトリック出版ブースの向かいが日本共産党ブースだった(笑)。

 人文や思想のカテゴリーに一緒くたにされて居るので、そんな事に成ったのかな?

 ここぞとばかりに一発反共を咬まして欲しい気もしたが、カトリック出版ブースの中には人類の敵で在る正平協の母体中央協も一応出展して居るし、他のカトリック系出版も多寡は在れども左へ倣いだから端から無理か……トホホ…。

 だが、日共のブースの近くには大紀元時報を配り、「共産党についての九つの論評(略して九評)」を売って居るブースが在って嬉しくなり、場所が場所で何だが、そんなもんに構わずに応援したのは云う迄もないであろう。

 無理なのは判っているのだが、それでもカトリック系出版も大紀元時報に倣い、羅馬天主公教時報でも臨時に発刊し「特報!支那政府の宗教弾圧の舞台裏」とか、「支那共産政府、司教任命を強要、強行しヴァチカン市国へ不当な内政干渉を働く」とかのネタでポスを飾りアジビラを配って欲しかった。

 ブック・フェアーとは云うものの、中にはイデオロギーを前面に打ち出している展示をして居るブースも在るのだから、その位は好いのではないかとも思う。

 まあ、先に書いた様に、「多寡は在れども左へ倣う」連中だから無理か。

 それから、ブラザーや神父さんは、ハビトやスータンを着た方が好いインパクトを与えるのに、何で着ないんだろう?修道服や司祭服は営業服では無いのはわかるが、傍から見ると司祭や修道者で在る事を、そんなに隠したいのかな?とも穿って見てしまいたくなる。

 スーツに身を固めて営業トークをする修道者が憲法九条死守等の記事を垂れ流すよりも、ハビトに身を包んだ朴訥な修道士が天国を示してくれた方が、よっぽど布教になるのではないだろうか?

 カトリック出版事業の目的は人類を天国に導くのが目的で在ると思うのだが、その目的とは相反する目的を御持ちのお向かいのブースさんと思想的にも一段と似て来た気がする。

 詐欺師でも営業スマイル位はするから、天主への愛に生き、天主の愛に活かされて居る者のスマイルが一層引き立つのは、召命の見える形を身に纏って居る時だと感じる。

 書籍を見て歩くのは当然だが、書籍以外の組版のソフトや、印刷と簡易製本がまとめて出来る機械や、製本やら何やらの方も興味深く見る事が出来て面白かった。

 どっかのキー局のアナウンサーも見れたし。

 でも疲れたな。
2006年07月08日 21時00分49秒
どうでるのか?
 無神論的全体主義国家の或る国が遣ってしまった。

 独立記念日を迎えた某国の挑発が有ろうが無かろうが、あの国が自ら招いてしまった状況では遅かれ早かれ遣ってしまうで在ろう事は妄想主義者以外の現実主義者には判っていただろう。

 ミサイルを突き着けて金品物資を強奪し続けて居た国が、更なる強要の為に威嚇発射した様なものである。

 盗人猛々しいとは当に此の事を指して居るだろう。

 そんな国に喜々として貢いで居た、或いは、そんな国の片棒を担いで居た売国奴、否、人類の敵とでも云うべき輩の一角を担って居たのが、他ならぬ日本カトリック教会の一部のーー然し声も態度もデカイーー輩で在る。

 まさか、此の段に及んで態度を豹変する訳ではあるまいが、人類の敵の正義と平和とは何で在るかの具現を今後の出方によって示す筈だろうから、動向を今迄以上に注視しょうと思う。

 此の世の敵と人類の敵は同意義ではない事を知らしめる必要を感じた。
2006年07月05日 19時58分50秒
人畜無害の様でも
畜生は勿論の事、実は人間にも有害で在る事が多々在る。

 心地好い事ばかり垂れ流して居る輩も、一見した処は無害に見え、ややもすれば癒し系にカテゴライズされてしまうらしいが、その内実はイメージとは異なる事が在り得るのが、ヴァーチャルの世界の穽で在る。

 天国へ至る道は狭く険しい道で在る。

 広く楽な道を通っては天国へは行けぬので在るが、心地好い事ばかりを垂れ流して広く楽な道を通っても天国へ行ける錯覚を興させる輩などは、偽予言者、偽教師等と呼んでも差し支えないで在ろう。

 偽教師に惑わされて癒されて居るつもりが、実は天国への道を狭めて居る事に早く気付いて欲しいとは思う。

 …が、信仰に於ける判断基準を信仰と離れた処に求める輩には、何を言っても示しても、徒労に終わる気がする。
2006年07月02日 23時37分59秒
困った輩
 悪貨は良貨を駆逐する…とか何とか云うらしい。

 「平易に」とか、「判りやすく」とかの意向等は、一見すれば良い様に見えるが、事と次第に因れば悪貨に成り得るので在る。

 民主的手法を執るのは、己に力量が無い事の現れで在るのだが、同時に実力の無さを隠す隠れ簑にも成る。

 こんなのが知った顔で講釈の一つも偉そうに垂れる事が出来るのだから、詐欺師が無くならないのも無理はない。

 夢々忘るゝなかれ。
2006年07月01日 23時04分15秒
こうは見えても
司祭を大切にする方だと思う。
 毎度減らず口を叩いていても、大切にする気持ちは心底に何時も在る。
 故に、それらしく大いに持ち上げて利用しておきながら、その実は心身を害させて居る輩には敏感なのかも知れない。
 だが、いくら察知して注意を促したとしても、大切にしようとする対象に、その気がなければ大いなる徒労に終わるので在る。
 故に関わり方を変える事にした。
 だが、心労は減る処か募り続けて居る。
2006年06月30日 23時36分14秒
Memento
 御聖櫃の御前に額付る幸福に感謝しよう。
 御聖櫃と御聖體の常明灯を探さなければならない御聖堂が多く成りつつ在る中で、入堂して直ぐに天主様の在ます事を視認出来る御聖堂に入れると心から安堵する。
 己一人しか居らぬ御聖堂で、天主様を独り占めに出来る無上の贅沢を天主様に感謝し、先達による信仰の勲功を瞑しょう。
 時至りて退堂せねばならぬ時には、名残を惜しみつつ、心は此処に留まらせ給えと願おう。
2006年06月29日 23時43分43秒
聖母の祝日!
 今日は絶えざる御助けの聖母の祝日で在る。
 此の日を迎えるにあたって、小教区毎に或いは任意の共同体毎に、もしくは個々人が、それぞれの意向をもって、しかし何れも教会と共にノヴェナを捧げられた事でしょう。
 諮らずして、此の不肖なる哀れな罪人もノヴェナに参加させて頂く恵みを賜った。
 今夕(夜)の御彌撒にも与からせて頂き、今まで以上に絶えざる御助けの聖母に依り縋って、此のちくたくの道を歩もうと決心した。

 Mater de Perpetuo Succursu, ora pro nobis.
 絶えざる御助けの御母、我等の為に祈り給え。
2006年06月27日 23時42分15秒
感謝
 或る宣教師の御祝いで思った。
 日本の為に有難う。
 顔はアルコールで真っ赤になっては居たが、心の中では感謝の念で一杯だった。
 そこでも旧知の司祭と出会えた。「聖フランシスコの心を忘れずに頑張れ!」とも言葉を賜り嬉しかった。
 今日は何とも云えない、好い一日だった。
2006年06月24日 23時25分46秒
主と従
 或る歌ミサに与って来た。
 とは申せ、音楽に対しては全くの素人なので、思いついた事を書く。
 キリアーレは「懐古主義者」が良く用いるワンパターンの8番ではなかったのが良かったし、クレドも同様に3番ではなかったので、ホッとした。
 司式者と会衆(歌隊含)との応誦の時、司式者の歌う1拍と会衆の歌う1拍が、略同じ拍子と云うか等価に近かったたのも良かったと思う。「懐古主義者」の場合には往々にして、司式者の歌う拍子に対応するのではなく、各々の記憶に凝り固まった拍子を用いるので、司式者の歌う1拍に対し会衆の歌う1拍が、司式者の歌う1拍の2倍や3倍の事さえ侭在るので、会衆を歌隊が上手に導いて居る配慮を感じられたので、その点でも良かった。
 コンフィテオルも唱えるとバラバラに為るので、歌った方が良いのはないかと思った。僕が齧って居た頃は、譜面が無かった気がするが何故か曲を覚えているので譜面は有るのだろうし、若しも無いのならLiber Usualisに限らずに聖歌集の1962年版以前の版にはコンフィテオルが載って居るので、其れを参考に譜面を起こしたら良いのにと思う。
 式次第も仰々しく無くて好いと思った。誤植もミサ中に気付いたのが2,3だけで在る。
 ベタ誉めに見えるかも知れないが、実はそうでも無い。有名な「懐古主義者」の集まりに比して、個人的に好いと思えた事が在った故に粗を述べないのかも知れないし、書いて居るうちに素人のくせに偉そうな事を言うのに気が引けたのかも知れない。

 ただ、一言だけ言わせて貰えば、歌隊の面よりも祭壇の奉仕の方が気になった。
 司式司祭は兎も角、侍者が一人と云うのも何なんだろうと思う。せめて、あと一人位如何にか為らなかったのだろうか?
 文句はその位にしておきたいのだが、実は未だある。
 それは、侍者の方が香炉を扱った手で歌隊へ御聖体を配りに行ってたのが非常に気になったと云うより、その事実に愕然とした。
 勿論、手を洗浄して居れば文句はないのだが、彼にはその時間的余裕は無いと思えたので愕然としたので在る。
 そう言えば、此の侍者の方は、彼の有名な「宗教音楽研究所」でのミサでも侍者を務めて居らる御方だと思うが、この姿を見て「宗教音楽研究所」では、その辺の指導はどうしているのかを疑問に思ってしまったし、この点に就いては「懐古主義者」の方が気を使って居ると云うか注意を払って居ると思えるし、端から見て居るだけだが事実そうで在る気がする。
 序に付け加えれば、「懐古主義者」の方が典礼の中の聖歌の役割を理解して居ると思う。
 なぜならば、ワンパターンで在ろうが、セミオロジーが最新の研究成果で無かろうが、何で在ろうが、聖歌がミサに従っているからで在る。
 勿論、「宗教音楽研究所」ではミサを聖歌に従属させる様な本末転倒も甚だしい事は行っては居無いとは思うが、チボリウムを持った侍者の姿に一抹の不安を感じたりもした夜であった。

ものはついでだから雑言をもうチョット吐いてみるが、ミサが行われた聖堂には立派な文字通りの祭壇=Alterがあるのだが、ミサで実際に使われたのは大理石で造られた文字通りの祭壇ではなくて、それよりは格段に見劣りする木の祭壇ならぬ祭卓である。何故なのだろうか?
 よもや聖歌練習の発表の場として聖堂を用い、発表の機会としてミサを位置付けては居るまいが、だが、そう考えてみると、ワザワザ高い処から低い所に移動し、ワザと見劣りのする祭卓を用いてミサを捧げるのは、ミサを聖歌の引き立て役程度、謂わば刺身のツマ程度にしか考えて居るからではないかとワザワザうがってみる。

 それから、ミサの始まる前における聖堂内外でのピーチク・パーチクを制御できないのか、はたまた放置して居るのかは不明だが、何れにせよ天主の家たる聖堂ではふさわしくない態度で在ろう。
 この雑音は聖堂を発表会の会場と捉えて居る故に発生する騒音で在る様に思えてならない。
2006年06月23日 23時55分33秒
小さい決心
 この間、旧知の司祭へ会いに行って来た。
 相変わらず御忙しい最中で在られたが、快く時間を割いて下さった。
 確固たる信仰が齎す精神の柔和さから来るのだろうか、物腰の穏やかさは嘗てと変わりなく、落ち着いて旧交を温めあう事が出来きた。
 此度の訪問が、此の憐れな霊魂の慰めになったのは言うまでもない。
 天主様の御蔭で、多くの良い司祭と面識を得られ、良い指導と影響を享けれた僕は幸せ者だと改めて思う。
 天主様と天主様の公教会へ全き自由を以って身を捧げられた方々を、今まで以上に尊敬するように心掛ける努力をしよう。
 Deo Gratias!
2006年06月22日 23時46分25秒
吐いた唾を飲む奴
 もう六・七年位前の事になるで在ろうか。
 今も係わり合っている共同体に於いて、その当時に知り合いで在った奴から
「もう二度と会う事はない。精々○○と楽しく遊んで遣ってくれ。」
と云う旨の決別文を認めたメイルを貰った事が在る。
 態々「その当時に知り合い」と質して書いたのは、奴から一方的に決別されたからで在り、今に至るまで其れは履行された侭で在るからで在る。

 奴がそんな決別文を送り着けた伏線には、奴の思い通りに或る事が進まなかった事に対する腹いせが在ったのは判って居る。
 奴の動機の純・不純は兎も角、志しが達成されなかった事には同情をして居た。
 だが、此の決別文送付より前に、奴は思い込みと自惚れだけは人一倍強い人間で在る為か、事が進まなかったのは○○のせいだとして彼を糾弾する旨のメイルを先に送り付けて居たので在る。
 しかし、そもそも事が進まなかったのは奴の人間的欠如に起因するもので在り、決して○○のせいでは無いし、第一、如何贔屓目に見ても奴には端から無理だった事に、駄目基で挑戦させて呉れる御膳立ての労を執った○○に感謝こそすれ、在ろう事か誹謗中傷等を行うのは筋違いも甚だしい卑劣な行為だし、その行いだけを見ても将に忘恩の輩で在ると云え様。
 此のメイルを読んだ途端に、奴に対して匙を投げたので在るが、それが奴には面白くなく、決別文送付に繋がったのだと思う。

 知り合いとは申せ、元々から厭な奴だったものだから、決別文を貰い却って清々したものだった。

 それから三年程経った頃で在ろうか、何と奴が再び現れたので在る。
 「性懲りも無く」とは此の様な事を指すので在ろうが、臆面も無く抜け抜けと眼前に現れやがったもので在る。
 「もう二度と会う事はない。」と曰った輩が、先の決別宣言を撤回する訳でも無く、○○への誹謗中傷を詫びるでも無く、何事も無かったかの如く、何食わぬ顔で現れたもので在る。
 先の決別宣言への意趣返しをする訳ではないが、物事には道理と云うものが在ろう。
 旧に復すには、其れなりの筋道を執るべきで在ろうが、奴には其れさえも解らないと見える。
 しかも、相変わらず旧怨、筋違いも甚だしい恨み辛みを憚る事無く恨言として現して居るので在る。
 恨み骨髄に徹してい居るとでも云うので在ろうが、奴の最低の所業に愛想が尽きて相手にするのも嫌に為り、その裡に当時属して居た共同体へも足が遠のき、今では全く関係が無くなってしまった。
 その共同体には申し訳ないのだが、所属義務も帰属義務も無い共同体だし、奴の存在自体が僕の精神衛生上に悪影響を与え兼ねないので、正直言って清々して居たので在る。

 ……と思いきや、またぞろ奴が現れだしたので在る。
 在ろう事か、奴が誹謗中傷し続けて居る○○の共同体へノコノコと現れたので在る。
 厚顔無恥と云う言葉は、奴の為に在るのかも知れぬが、未だに決別宣言も誹謗中傷も撤回・訂正されて居無い。
 又、奴が己の為した所業を鑑みれば、羞恥の余り○○の共同体へ現れ得る筈など無いのだが、端から恥も無き者なので在ろう。
 まあ、己の吐いた唾を平気で飲む奴で在るから矜持も無いだろうが、呉々も其の害悪を撒き散らす愚は謹んで貰いたいもので在る。
 と云うか、これ以上目の前をウロチョロして欲しく無いのが本音で在る。
 己に都合の良い寛容だけは相手に強要する、歩く不寛容の塊で在る奴を駆逐する術を探している今日この頃である。
2006年06月20日 23時34分17秒
辛い
Salus me!
2006年06月01日 23時52分25秒
書簡
 恩師が帰天されてから約半年、師匠が帰天されてから約二月が過ぎた。
 両師が帰天されてからと云う訳ではないものの、旧知の間柄に在る方々との復交が少しづつ進んで居る。
 先日も或る教会で御ミサに与かった折りに、思いがけない方と再会出来た。
 正確に申せば、先方は此方のツラなんぞは忘れて久しかったらしいから、一方的な再会だったのだが、我が信仰の形成に一役買って下さった方との再会は嬉しかった。
 後日、喜び勇んで書を認めた処、丁寧な御返事と幾つかの小文を頂いた。
 短いけれども益が多い小文の幾つかは先代の聖下に就いての読み物だったが、これは僕を覚えて居て下さって居る証拠だと思って居る。
 本当に本当に有難い。
 また、此の方と引き合わせて下さっのは恩師で在るが、そもそも僕と恩師を引き合わせて下さった方が帰天されて居た事も最近知った。
 恩師の為に永遠の安息を祈っては居るのだが、諮らずも恩師は忙しく働き掛けて居られる様子だ。
 きっと今まで以上に、此の哀れな息子の往くべき道を示して下さる事だろう。
 恩師に巡り逢わせて下さった天主様に感謝!
2006年05月29日 05時54分57秒
今日からノヴェナ開始!
 全くの個人的な祈りなのですが、僕は公教会祈祷文の二一○頁に在る『聖霊の御降臨を望む祈り』を以って、聖霊降臨の主日を迎えるノヴェナの祈りに充当しています。
 上記の祈りの後に、下記のお祈りを付け加えて一日分のお祈りにして居ます。
 参考迄。

 聖霊来たり給え。
▲我等に七つの賜物を与え給え。
 上智の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。
 聡明の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。
 賢慮の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。
 剛毅の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。
 知識の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。
 孝愛の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。
 敬畏の聖霊来たり給え。▲我等を助け、我等を守り給え。

 祈願せん。嗚呼主よ、我等は我等の為に御自らを十字架上の犠牲となし給いし我が救い主イエズス・キリストによりて伏して願い奉る。願わくはこれらの全ての賜物を我等の上に豊かに賜わらん事を。▲アーメン。
2006年05月26日 23時28分32秒
跪づくこと
 さる方よりメイルを頂き思った事のメモです。
 跪拝とは礼拝時の姿勢にして、敬神行為時に於ける崇拝の情念を外的に表す姿勢で在るが、この姿勢を執る事に因って心(霊魂)に崇拝の情念を呼び起こす外的要因でも在る。
 御聖體拝領時の外的姿勢の緩弛が、内的状態への無関心をもたらして居るのではないかと思って居る。
 大罪の状態で御聖體を拝領しては為らない掟が在るが、御ミサに与かる略全ての人々が御聖體を拝領する現状で、果たして此の掟を守って居る方がどれだけ居るのだろうかと感じる。
 きっと皆さんは心の清い方なのだろうと思ってみる一応の努力はしてみるが、告解室の扉の取っ手に積もる埃を見たり、告解室が物置になって居るのを見ると果たして如何なものかと思う。
 告解を願った信徒に対し、或る司祭は、「ゆるしの祕蹟を受けなくとも、ミサの初めの方で行われる回心の祈りがそれ(ゆるしの祕蹟)の代りになるから、ゆるしの祕蹟をしなくても大丈夫」と悪びれる事なく宣ったもので在る。
 告解室の物置化が、此の司祭が宣った様な誤謬に基くものならば、これは由々しき事態で在る事は謂う迄もない。
 此の教理的な逸脱が慢延する事は無いと願いたいが、キリストの神秘體の構成員は易しきに流れ易い弱い人間で在る故、この先、何如なるか解らぬ。
 御聖體拝領時の外的姿勢の緩弛が、教理的な逸脱、規律的な逸脱を産み出す何らかの因で在るとしたら、此れを導入した者の責任は追及されなければ為らないだろうし、此の緩弛した態度を強要し続ける司牧担当者の強権的姿勢も改めて貰いたいもので在る。

 御聖體拝領時だけでは無く、典礼挙行時には跪拝が全く行われない教会も在る。
 跪きが日本的ではなく、御辞儀が跪きに代わる日本的なもので在ると主張し典禮に導入した者は、跪きが非常に日本的な所作で在る事を知らない者で在るか、天主を人の位に引きずり降ろす事を目的にした者のどちらかで在ろう。
 何れにせよ、敬神行為に関わる決定事項に係わるには相応しくない者で在ったと思う。
 日本で跪きの代りに導入されたとする御辞儀は謂ゆる最敬礼なので在るが、最敬礼それ自体は今の新しいミサは云うに及ばず、トリエント典禮のミサでさえ毎回行われて居た所作で在る事を鑑れば、本来跪きを要する所や処での最敬礼は相応しくない所作で在ると云えよう。
2006年05月24日 20時54分39秒
良司祭
 今日、久しぶりに司祭らしい神父様に会えた。
 それだけで満足だった。
 短いながらも聖堂中で祈れたのも幸いだった。
 聖櫃に在します聖救主を拝す至福の一時だった。


 我が弱きを知り給もう御者に在します主よ、願わくは我が足らざる処を補い強め給え。
2006年05月16日 20時18分51秒
慣れられない祈り
 今日或る教会で初土の御ミサに与かり、その後のロザリオにも参加させて頂いた。

 参加させて頂いた身でトヤカク申すのも何なのだが、ロザリオでは個人的に馴れ親しんだ文語は使われず、未だに馴染めない口語の祈りが用いられ、唱える度に違和感を伴いながら祈った。

 始めは「慣れ・馴れ」の問題かとも思って居たが、件の口語が導入されて数年を経た今でも馴染めない。

 順応性の欠落や協調性の欠陥かな?とも思ったが、やはり既に在る文語と比較して未熟な出来映えで在り、採用された単語も「?」の箇所が満載と云うか、その単語では本来の概念と違うだろ?とか、文語に在る此の言葉を省いたら祈求そのものが成り立たないだろ?……等と無学無能乍も感じてしまうからだろう。

 徒に「カトリックの文化的受容」とか「キリスト教の日本への土着化」等と声を高らかに挙げ乍も、その実は「ハレ」と「ケ」とに於ける言語の区別や神聖な事柄に対する垂直的な概念と云う「日本的文化」は決して顧みられない、「文化的受容」と云う名を借りた行為への反発を感じて居るのが、口語が馴染めない遠因でも在ると自覚して居る。

 この「文化的受容」に因って、明治のキリシタン高札撤廃以降に復興され昭和の中期頃迄の間に「日本的」に育まれて来た種々のカトリック文化が破壊され、あまつさえ、従来「主祷文」或は「天にまします」と呼ばれて居た、イエズス・キリストが命じ給うた祈祷文でさえも、用語の変更や言葉の削除に因って、概念的に違う祈求を為して居ると思われる箇所すら見られるのだから、これらは「カトリックの文化的受容」ではなく「カトリック的文化の破壊」で在り、この「文化的受容」と云うお題目と共にシキリに唱えられて居た「刷新」と云う言葉の内実は、それがもたらした結実が伝統や権威の否定や拒否だった事から「革命」で在ったと思えるので在る。

 日本カトリック教会に於ける「文化的受容」と「刷新」は、日本カトリック教会版「文化大革命」で在る気がしてならない。

 本家の「文化大革命」が彼の国にもたらした害悪を思い、革命で破壊尽された後の復興の困難さをカトリック教会に照らし合わせた時、その悲惨さ悲愴さに戦慄さえ覚え、もしもその様に成ってしまったならば、将にキリストによってしか教会は復興するしか術が無い事を思い知らされる今日この頃で在る。

 無学無能無徳の輩の妄言でしかないが、此が杞憂で在らん事を願う。

 そして、「公教会祈祷文」の復興と復権を願う。

 此の祈祷書にノスタルジーを感じる故ではなく、此の祈祷文の文体が「ハレ」で在る敬神行為にふさわしいと思う故で在り、それは日本的で在るからで在る。

 同様に「公教聖歌集」の復興と復権をも願う。

 「公教聖歌集」に収められて居る言葉の気品の高さには、カトリック聖歌集は及ばないからで在るし、歌い易いが低俗過ぎる一部の典礼聖歌の詞と曲に至っては問題にすら為らないと思う。

 ……等と述べるのは果たして傲慢で在ろうか?

 然るべき役職等を担って居たり、それ等で祿を喰んで居られる「専門家」の方の放言に比べれば、素人の妄言には罪は無い気がするのだが。

 妄言ついでに、イエズスと云うカトリック固有の呼称が、イエスと云う異端連中と同様の言葉に代ってしまったが、これなんぞカトリック側の敗北宣言に等しいと思って居る。

 地獄の門さえ勝てない筈のカトリック教会で在るが、「革新」ならぬ「革命」行為で自爆的に教会を破壊して以来、自信を喪失して異端に媚る様になった気がする。

 この自爆的行為を「カトリックは度量が広い」等と囃したてて、或いは囃したてられて、気持ち良く成って更成る自爆的行為を重ねるのは滑稽ですら在り、この様な自虐的行為を繰り返す事はカトリックを滅ぼすのでは在るまいか。

 カトリックが自らの手で喜々としながら、カトリックをカトリックでなくして居るのだから、何れは亡くなるのは自明で在ろう。

 
2006年05月06日 23時49分56秒
九条カルトの毒牙
 数年前迄、或るカトリック系の雑誌を愛読させて頂いて居たのだが、何かのキッカケで読まなく為ってしまって居た。
 この雑誌には何の不満も無く、却って他の「カトリック」の名をを冠した諸紙・諸誌と比べれば、左翼偏向したイデオロギーが行間から滲んで居なかったので、その意味では安心して読める稀有な雑誌だった。
 その懐かしい雑誌を数年振りに読む機会に恵まれ、今の処、3号ばかり続けて読んで居るが、残念な事に此の雑誌も左翼偏向したイデオロギー(此の場合は、護憲セクトの9条カルト)が誌面を侵蝕し始めたのを目にして、非常に残念に思って居る。
 張られて居る論は左翼・サヨク系の論調其のモノで在り、流石に其の内容に対し編集部宛てに実際に幾ばくかの抗議が来た様だが、執筆者及び編集部は悪びれもせずに抗議には「我関せず」を決め込んだ態度を執った処を見ると、自分達が何を掲載して居るのかを熟知して居る、謂わば確信犯で在る事に間違いは在るまい。
 この事態には、本当に憂慮して居る。
 諮らずも、聖コルベ師が対峙した「闇の勢力」に加担し、それに侵蝕為れ始めて居る異常事態に気付いて欲しいと祈って居る次第で在る。
2006年05月01日 23時29分24秒
何なのだろうか?
今まで僕の隣に座っていた壮年者四人組の集団は?。
2006年04月29日 07時36分52秒
天主に感謝!
 旧知の方から書簡を頂いた。
 もう何年も音信を途絶えさせてしまったのだが、我が非礼を顧ず、過日と何らも変わらぬ暖かい書簡を頂いた。
 書簡と共に、僕が一番読みたい書籍が同封されて居たのには驚いた。
 和まされる懐かしい筆跡で埋め尽されたカードを栞にしつつ、頂いた書籍に親しんで居る。
 書簡と書籍の御礼の電話を差し上げてみたが、喜ばれてしまった余りなのか一方的に話されてしまい、御礼を申し上げる余地が与えられなかった。
 やはり、御礼を含めた返信は書簡で致すべきなのだろう。
 一方的に話されたのも、書簡を認めさせる作戦だったのかも知れないと微笑し、何を書こうか楽しみ乍思いを廻らして居る。
 音信無き間で在っても、些かも変わり無い祈りで支えて下さった事にも感謝しつつ。
2006年04月22日 02時27分06秒
承け伝え
 僕の様な者でも、人並に歳を経るに従って、それなりに出会いと別れも重ねたし、それはこれからも度重なるで在ろう。
 今までの出会いで得られた善い事を、新たな出会いで伝え、また、より善い事を吸収出来たら好いと思う。
 師匠や恩師から受けた善い物を、どの様に伝えるかが課題で在るが、当然乍この善いモノを「善い」と認識出来ない方には伝えられないだろう。
2006年04月22日 02時22分09秒
同期の櫻 1
 先の土曜日の午後、靖国神社の大村益次郎像の後ろにて行われた「同期の櫻を歌う会(正式名称は忘れた)」に参加した。

 唯でさえ花見客で混雑して居る靖国の参道に、特設ステージを誂えて大勢が歌うので在る、大混雑が予測されるが気にせずに参加した。

 俄か会場を埋め尽した大部分は、栄え在る皇軍の将兵で在り、此程の数の皇軍将兵が一堂に会する事は、怱々無いで在ろう。

 そんな訳で、尊敬する人生の大先輩達に混じり、恐縮しつつも楽しみながら歌った。
 「同期の櫻を歌う会」とは云っても、同期の櫻だけを歌うのでは無く、陸海軍の軍歌や戦時歌謡も歌うので在る。
 久々に軍歌を歌える嬉しさの余り、声を張り上げて歌った。
 これでも数年前には畧毎週軍歌を歌った身で在る、自慢する訳では無いが大部分の歌はソラで歌えた。
2006年04月07日 23時36分22秒
同期の櫻 2
 この歌う会に参加したのは、僕自身が軍歌を愛好すると云う理由も在るが、何よりも、僭越乍、明治維新以来の祖国の英雄の為に歌う故に参加させて頂いたので在る。
 つまり、国難に殉じた英雄の顕彰の意を込めて歌うので在り、此の意こそ僕が靖国に参り頭を垂れる由でも在る。

 何故ならば、靖国に記念されて居る英雄の多くが、此処に記念される事を生前に望んで居られたからで在る。
 また、此等の英雄と苦難を共にした方々が互いに「靖国で再会しよう」と仰せられた場所で在る。
 故に、多くの英雄の望みから云えば、靖国以上に相応しい場所なぞ無いし、又、個々の英雄の信ずる宗教宗派思想信条を問わず、国難に殉じた英雄の方々を平等に記念すると云う、普遍的な場所と云う意味から観ても、相応しい場所は此処靖国しかないと思われる。

 各々の宗教者は、各々の宗教に属して居た英雄に対し自らの宗教儀式を執り行えば善いので在るし、又、己の信ずる宗教に忠実な宗教者で在ればそうで在るべきではないか。
 其が真の宗教で在れば、他宗教が何如なる行為を為したとしても、其の他宗教の教義を信じて居る訳では無いので動ずる筈は無いし、もしも動じたとして騒ぎ出したら、其は宗教等では無く迷信で在る。
 つまり、種々雑多の宗教者が、靖国に英雄が記念されて居る事実を以って、「遺族」で在る「私」の「信教の自由」が妨害されたとか、英雄の「魂」或いは「靈」を返せ等と云うのは、自らが信ずると標謗する宗教を実は信じては居らず、却って、戦後は一「宗教」法人として生き残るしか術がなかった靖国の教義を信じて居る事の表明に成るので在る。
 靖国が神道形式の宗教儀式を以って英雄を記念しても、他の宗教には独自の儀式が在り、それを信じて居るからこそ宗教足り得るので在り、動ずる事等在り得ないだろう。
 信教の自由に対する侵害と云う意見も然りで在り、却って、靖国の信教自由を侵害して居るのではないか。
 偏向したイデオロギー保持者が、宗教と云う名を隠れ簑にし、靖国の信教の自由を妨害して居る様に見えて仕方がない。

 僕は英雄の記念と敢えて書いたが、此は、亡き者に手を合わせて頭を垂れると云う、一種の宗教的行為に相当し、此の行為を追悼とも云う。
 故に、無「宗教」による「追悼」施設等は土台無理な構想なので在る。

 この国では、祖国を護る為に殉じた者に敬意と感謝と哀悼を顕す事を目的にした施設が靖国神社で在り護国神社で在る。
 戦争鼓舞の施設等では無い事を認識して貰いたいので在る。
2006年04月07日 23時38分39秒
阿保に返す言葉
Erubescant et revereantur simul, qui gratulantur malis meis: induantur pudore et reverentia, qui maligna loquuntur adversus me.
2006年04月08日 23時45分32秒
Misericordias Domini in aeternum cantabo.
 恩師の一人が帰天した。

 また一人、薫陶を受けた司祭が天主様の御基に往かれた。

 復活の信仰を持って居ても、別離は本当に辛い。

 今から思えば、恩師が息を引き取ってから間もない時間に、或る教会を訪れて祈って居た事が不思議に思われて仕方がない。
 無性に祈りたかった、御聖櫃の前に膝を折り、頭を垂れて祈りたい衝動に駆られて、或る聖堂に足を踏み入れたので在る。
 虫の知らせと云うモノかも知れない。

 恩師が愛して下さった様に、僕は恩師を愛して居なかった気がする。
 師が弟子より勝り優れて居るのは当然だが、互いを愛する度量に於いても弟子を遥かに凌駕して居た事に気付かされる。

 恩師から受けたモノを伝える事が出来るか否かを自問して居る。

 今回の訃報を伝えてくれた友人には本当に感謝して居る。


 虎屋の羊羮を背負って、あの石段を登った日々が思い出される。
2006年03月27日 22時02分37秒
お告げの祝日
 お告げを黙想する時に、屡々思い出すのが、先日書いた恩師から発せられた御言葉で在る。

 師:『僕はミサの時にはマリア様の御謙遜とフィアットを思い起こすんだよ。』

 詳述の愚は避ける。

 この司祭と知己を得させて下さった天主様に感謝すると共に、知己のキッカケを造って下さった方にも改めて御礼を申し上げる心積で在る。 

 恩師への書簡は既に出したので、次はこの方へ手紙を出す事にしよう。
2006年03月25日 23時53分34秒
恩師
 信仰の賜を得、その基礎固めを為す大切な時に、本当に良き司祭達に巡り逢えたと実感して居る。

 何れの司祭とも不思議な出会い方で在り、僕の様な「オーどか」な者には余りにも勿体無い、身に余る出会いで在った。

 其の当時、此の事実に首を傾げて居た僕に、恩師の一人が諭して下さった。

 師:「それを御摂理と云うたい。」

 僕:「摂理とは、そんな簡単なモンですか?」

 師:「そんなモンたい。難しい事は無かと。」

 あれから十有余年が過ぎ、御摂理に関して様々な見聞を重ねたが、此れを越える単純明快な説明は聞いた事が無い。

 「そんなモン」を与えて下さった天主様と、「そんなモン」を簡単に説き証して下さった恩師に感謝して居る。

 ふとした事から、その恩師に文を認める事に相成った。

 単なる手紙に過ぎないのだが、妙に興奮して落ち着かない自分が面白い。
2006年03月23日 23時54分07秒
 辛い。

 感謝。
2006年03月22日 23時54分40秒
不思議
 経済やら外交やら教育やら環境やら軍事やら何やらかにやら…………何もかもが「あぼーん」寸前の日本国。
 政治家も、官僚も、国民も、そしてオイラも、いい加減に目覚めよ!

 な〜んちって。w

 東京大虐殺は立証出来る史実、南京大虐殺説は単なるデマ。
 前者はアメリカが起こしたホロコーストの一つ、後者はそれらのホロコーストを糊塗する為に作った虚構。
 しかし、前者は殆んど忘れ去られる傾向に在るのに対し、後者は犠牲者数が増加の一途を辿っているのが不思議。
2006年03月21日 23時36分34秒
小冊子
 変な小冊子を読んでみた。
 何が変かと云えば、カトリック教会の名を冠して居る小冊子なのに、カトリックの薫りがしない論調が紙面を埋め尽して居るのが変なので在る。
 論者に因っては所々に宗教的な用語が出て来る位が関の山で在り、書き手に因っては宗教用語が一つも無いので在る。
 カトリックと謠い乍も、其等の論旨は無神論者の論調と同じ、と云うか、宗教者と云う隠れ簑を着けた無神論者の論調で在る様な気がする程に、論旨が偏向して居るので在る。
 中には聖職者と云われる者の名も見えるが、カトリックの教えを基調とした論者は居ない。
 カトリック教会の中で反日・嫌日思想に凝り固まった冒教の輩が徘回する様に為ったのは、今に始まった事では無いが、此の様な論旨がカトリックの教えに基づく公式な見解だと誤解されては、一公教徒として堪ったものではない。
2006年03月18日 23時57分22秒
不思議のメダイ
 不思議のメダイの祈りに就いて質問のメイルを頂いた。

 「この世の中には、僕より相応しい方が沢山居られるのに何故?」と思いつつも、いつもの不躾なメイルをしたためて返信したので在る。

 実は、御質問を承る度の返信メイルは、僕にとっても良い勉強の機会に為る。

 御多分に漏れず、今回も勉強になった。

 不思議のメダイの表に刻まれている文字、即ち「O Marie conçue sans péché, priez pour nous qui avons recours à Vous.」は、公教会祈祷文中の「(嗚呼)原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え。」だと思って居た。

 故に、マリア様が聖女カタリナ・ラブレに示したメダイに印されていた此のフランス語のラテン語訳を「O María, síne lábe origináli concépta, óra pro nóbis qui ad Te confúgimus.」だと長い間思って居たので在る。

 しかし、フランス語原文に忠実なラテン語は「O María, síne lábe concépta, óra pro nóbis qui ad Te confúgimus.」だと云う事に気が付いた。

 そう云えば、英語のRaccoltaでも「O Mary, conceived without sin, pray for us who have recourse to Thee.」で在る。

 言い訳をする訳では無いが、日本語の祈祷文で「原罪」と在るが故に、ラテン語でも「labe originali」で在るとばかり思って居たので在るが、フランス語の原文では単に「péché 罪 (ラテン語 lábe・英語 sin)」となっており、「原罪 péché originel (ラテン語 lábe origináli・英語 Original sin)では無いので在る。

 僕の単なる不勉強が齎した勘違いだが、本当に心底から驚いた。

 勿論、此のお祈りの場合の péché は、暗に(概念的に)原罪を指して居るので、祈りの訳として間違いではないと思う。

 無原罪の教義が定められる遥か前より、カトリックの文化圏に於いては此の概念が浸透して居たので在ろう。

 だが、キリスト教文化が根付いておらぬ日本では、教理的な意味合いからも単に「罪」とせずに「原罪」としたのだと推測して居る。







 昨今では、この不思議のメダイがブームだと聞く。

 聖クリストフォルスのメダイ、ロザリオと来て、今度は不思議のメダイ……、次は何で在ろうか。

 このブームに因り、不思議のメダイの意匠の相違に依り「本物・偽者」が在るそうだが、これもインターネットの情報が根源による伝聞なので在ろうか。

 確かに、意匠が異なって居る「不思議のメダイ」を見かける事が在る。

 あからさまに意匠が違う奇怪なメダイに対する識別を促す喚起ならば肯けるのだが、仔細な差異に固執し偏狭な差別を助長させる火種に生って居る気がするので、正直首を傾げて居る。。

 現に流通して居る不思議のメダイの多くは、原版とは大なり小なり多少の多寡が在るので、是等は注意が必要で疑わしいとされるメダイの範疇にされ得る事に為る。

 では、例えば、メダイに「Regina sine labe concepta...」、或いは、「Regina sine labe originali concepta...」と刻んで居る物は如何で在るのか。

 「originali」の件は上に記した故に兎も角、マリア様が示したメダイには御自分を「Regina (元后・女王)」と刻まれて居なかった故に、このマリア様の称号を冠したメダイも注意が必要で疑わしい、所謂「偽者」にされてしまうので在ろうか。

 僕自身は、星の位置やら十字架・IやMの意匠の差異に由る、注意が必要で疑わしいとされるメダイに依って、充分に、そして真に「不思議な」御恵みを受けたと確信し、天主様にマリア様に感謝して居る者で在る。

 其れ故に、若しも機会が在ったならば、伝聞流布の根拠に成りかねないネタの発信者で在らせられる識者に、此の辺の疑問を解く為に教えを乞いたいもので在る。

 又、原文に無いorigineを附した邦語文に就いての所見も併せて御教示を願い、意匠の差異への喚起と共に取り上げて頂く様に一考を乞おうと思う。

 序に、メダイの本質は何で在ろうかと伺って診る心算でも在る。




 「嗚呼原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え。」
2006年03月16日 23時34分16秒
司祭
エミリー・ローズを観た。

当たり前だが、法廷モノなのか、オカルト・モノなのか、宗教モノなのか、はたまたドキュメント・モノなのかは、観る者の主観に由って変わる映画で在ろう。

既にWeb上では様々な自称評論家が無責任な論評を垂れ流して居るだろうから、其れ等に追従する形になるのは厭なので、下手な感想文を表すのは止めておく。

唯、あの司祭の様に誠実な司祭が身近に欲しいとは思った。
保身の為に平然と身を言を翻す司祭には、もうコリゴリだからだ。
2006年03月15日 00時30分23秒
 
 昨日の「ざわつき」の件で思い出した事が在る。

 東京武道館にて某保守系団体が主催した集会に参加した時の事で在る。
 この時の集会参加者は、昨日書き込んだ教会でのミサ参加者の100倍前後は居たであろう。
 それだけの大聴衆にも係らず、登壇した弁士が提言、表明する時の静けさを思い出した。
 勿論、提言の合間には割れんばかりの拍手が起るが、弁士が語りだすと静粛が戻るので在る。
 この聴衆のマナーの良さに感心した事も思い出す。

 ややもすればノンポリから「右翼」と目されてしまう(左翼からすれば確実に右翼認定)保守系の集会でさえ水を打った様な静けさを齎すと云うのに、我等の救い主イエズス・キリストの御受難の再現で在る筈のミサが、「ざわめき」に支配されて居るのは如何なモノだろうか。
 仮に(認めたくは無いが)、祭壇が食卓で、ミサが最後の晩餐の模りで在ろうとも、食事時のマナーと云うモノが在ろう。
 あれでは食事では無くて、まるで宴会で在る。
 「晩餐」等と云う品位在る言葉は似つかわしくない。

 こんな狂態が、自由な自分の自然な言葉で、自分の思いの侭に天主様を讃美する事に為るのなら、こんな自由など要らないと思う。
 規則に囚われた典礼や、教会の定めた信心に従うのは、天主様への自由で自然な真心の愛を縛り抑圧するモノだから良くないと云うのは、全くの詭弁ではないか。
 第一、天主様への愛故に、天主様の御建てに為られた公教会の定めた規則に従う愛の方が大切で在り、天主の十戒を定められた、被造物を創り給うた創造主への自然な態度ではないだろうか。
 この中にこそ、始めて真の自由と云うモノが見出されるのだと思う。
 百歩譲って(譲りたくないが)、自由に讃美する自由が在るのならば、規則に則った讃美を為す自由も在って然るべきではないだろうか。
 自由と云う名の下に、何故、規則に則った讃美を為す自由ばかりが排斥されるのか理解に苦しむ。

 公教会に蔓延り、公教会を確実に蝕んで居る、自由を履き違え、歪められた自由と云う御題目を唱える、強圧的な全体主義の駆逐と、敬神行為に於けるマナーとモラルの復興をを祈り待ち望むもので在る。
2006年03月07日 23時56分55秒
眩惑
 先日、在る教会で御ミサに与る機会が在った。
 と在る有名なカトリック施設に隣接して居る小教区で在る。
 日本全国津々浦々のカトリック教会が、例外無く御世話(?)に為って居る程迄に、超有名な施設で在る。
 其の様な著名施設が付随して居る小教区でのミサで在るが、典礼上での美しさ等は、端から期待はして居なかった。
 で、矢張り期待を裏切っては呉れなかった。

 先ず、侍者が居なかったのには驚いた。
 聖体奉仕者が1名、他に2名の方が聖体拝領の時にカリスを捧持したが、ミサの侍者の役割を為す者は誰も居なかった。
 主日のミサ、しかもメインのミサに於いて、侍者無しのミサに与ったのは、生まれて始めてで在る。

 次に、ここの教会には3〜4人の司祭が常駐して居るのにも係らず、聖体奉仕者が現れた事で在る。
 又、聖体奉仕者、及び、カリスを捧持した方々が私服で在ったのにも驚いた。
 少なくとも、聖体奉仕者位は、何らかの典礼上相応しい身形をするものだと思って居たし、現に今迄そうで在ったので、此れにも驚いた。
 それに、ミサを司式した司祭以外に、少なくとも2名の司祭は、ミサの始まる前の教会内には居たのだが、ミサが始まった途端に視界から居なく為ってしまうので在る。
 そして、ミサが終わった後に、何処からともなく現れるので在る。
 まるで、聖体奉仕者に遠慮して居るかの様に雲隠れをし、彼等の用が済めば再び湧き出て来るので在る。
 聖体授与の任を果たさない彼等の態度は、職務怠慢で在る様に見えた。
 否、聖体奉仕者の平服姿が不敬に価するならば、職務怠慢処の話では無いだろう。

 他にも驚いた事が在ったが、敢えて選んで述べるならば、ミサの間中、終始ざわついて居た事で在る。
 一瞬として静寂が訪れ無かったので在る。
 驚きを通り越して最後には呆れてしまい、そして情けなく為ってしまった。
 与ったこのミサが、僕が生まれて始めて与ったカトリックの宗教儀式で無かった事を感謝する。

 まぁ、此処の教会で好かった事と云えば、各朗読の後に「神のみ言葉」、「神に感謝」と云う応答が在った事位で在るが、これは在って当然なので在り、無い方が如何かして居るだけの話なのだ。
 Verbum Dominiを「主のみことば」では無く「神のみことば」にするセンスも頂けないし、Deusを「神」する感覚も頂けないが、これは別の話。


 この後、梅を愛でに出掛けたのは好かったが、その後が宜しくなかった。ハァ〜。
2006年03月06日23時30分25秒
メモ
Memento, homo, quia pulvis es, et in pulverem reverteris.
人(ひと)よ、汝(なんじ)塵土(ちり)なれば、又(また)塵土(ちり)に復(かえ)るべきを憶(おぼ)えよ。

これは、灰の水曜日に行われる「灰の祝別式(Benedictio Cinerum)」に於いて、信者の額に灰を撒く(或いは、灰を以って額に十字を記す)時に授与者が唱える言葉で在る(創世記3章19節)。

この言葉を含むこの式文は、四旬節の意に就いて実に含蓄に富む文で構成されて居り、変な学者が垂れ流す怪文書、基、奇説なんぞ塵以下の代物に見える。
2006年03月05日 22時32分41秒
猛烈に
自己嫌悪に陥る。

消えて無くなりたい(笑)
2006年03月05日 21時56分46秒
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