海軍記念日 |
今日は聖霊降臨の大祝日にして海軍記念日だった。 道理で地下鉄車内に於て白線二本が入った第一種艦内帽を被られた御年寄りを御見掛けした訳で在る。 云う迄も無く、日本海海戦で日本海軍連合艦隊がロシア海軍のバルチック艦隊に勝利した日で在る。 文字通りの大国ロシアを破った御先祖様達を普通に誇りにしたい。 |
2007年05月27日 23時42分57秒
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返書に固まる |
在る御方へ挨拶を認めた折りの返書が届いた。
勿論、御本人が認められたモノでは無く秘書の方に由る返信だったが、使われて居る言語に驚居てしまった。
僕が提出した挨拶状に用いたのは下手な英語が主で、一部に妖しい羅典語を認めたのだが、返書には羅典語が用いられて居り思わず固まってしまった。
もしかしたら、妖しい筈の羅典語が偶然にも正しく表記為れてしまった為に、此の様な事に成ってしまったのかも知れない。
下手な英語よりも妖しい羅典語の方が通用したのだと為れば、其は其れで少々複雑な気持ちで在る。
封書の宛名も今まで頂いた事の無い敬称が用いられて居たから、矢張り先方に勘違いを興させるに相応しい程に完璧な羅典語を認めてしまったのかも知れないが、御陰で解読に苦労為て頭がフリーズ為て居る。
其れに為ても、便箋の端から端までキッチリ羅典語で占められて居るのには驚いたと云うか矢張と云うか流石と云うか兎に角感心したし、何よりも便箋に綺麗な透かしが入って居るのにも勝手に感動して居るが、文面の意味は不明乍も此の透かしを眺めて居るだけで嬉しく成る。
所詮は紙切れかも知れないが、同じ紙切れでも一部一百五十八円もする某機関紙は眺めれば眺める程鬱蒼とした気持ちに為せてくれるので、同じ紙切れとは申せ此程迄価値が違うものかと熟思わされる。
明晩より愈々聖霊降臨の主日が始まり、今年もレジナ・チェリを唱えるのは後一週間だけと成った、より一層心を込めてレジナ・チェリを唱え様。 |
2007年05月25日 23時57分18秒
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飽きもせずに |
今週も紙面や体裁がベラッペラの“周布”の割に一部一百五十八円もする機関紙を飽きもせずに読んだ。
実質的な1面トップには、どっかの売國政治屋の如き言が在ったが、此のタワケ!と怒鳴りたくなった。 国民が暮らし易かった日本を暮らし難くした責の一端は外国人にも在る! 抑、外国人が我が邦に非合法に移住して来るのは、選り良き生活を営む為に辿り着くのだと思うが、其の中には端から犯罪行為を働く目的で密入国する輩も多い。 現に、外国人犯罪は多発・増加の傾向に在るし、此等の極悪外国人共が我が邦に来なければ、奴等が犯した犯罪は生じなかった筈だ。 それに、何等の具体的な案も現実的なビジョンも提示せず、只漠然と「共に暮らしやすい社会を」等とアジるのではなくて、カトリック信仰者成らば「真の王たるイエズス・キリストの統治社会、及びイエズス・キリストに於ける一致による平和社会」実現の為に奔走すべきではないだろうか?
其の下段には、前にも触れた国家転覆画策凶悪暴力集団と共闘と謂うか同じ坑の貉で在る団体の宣伝広告施設が、国際パックス・クリスティより平和賞を授与されたと云う記事が在る。 国際パックス・クリスティと云うても一応カトリック的な枠組みの団体と云うだけの代物で在る事は、自等が開いたシンポジウムのテーマを視れば明らかで在ろう。 此の「〜平和資料館」関係者・関連者がデモで自ら晒した好戦的且つ暴力的醜態を眼の当たりにした僕から看れば、此等の族輩が説き叫ぶ平和の概念は全くの眉唾モノでしかない。
声欄も、先ず御自分のファリサイ的な間違いに気付く為にカトリックの十全たる要理を先に学んだ方が善いと思われる方と、ラテン語やグレゴリオ聖歌を首位としながらも絶対的なモノに為なかった為に其等を衰退させた第二ヴァチカン公会議を信奉する第二ヴァチカン原理主義者と、役務・任務等の遂行に於ける儀礼行為を問題にしたい方の三投稿だったが、最後の方は先週の汎神論者に通ずるモノが在る気が何と無くする。 まぁ、先の教皇様がコーランに接吻したり、現教皇様がモスクで祈られた時に十字架の印を為なかった事に驚かない向きだろう。
最近では俳句や川柳の投稿だけが楽しみな位、紙面や体裁がベラッペラの“周布”の如き機関紙だけ在って一応カラー印刷なのだ。 一部一百五十八円もするペラペラなカラー印刷機関紙と“周布”との比喩にピンと来た方が居られたら嬉しい。 |
2007年05月24日 23時52分14秒
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喩え此の如き下らない落書きで在っても |
打ち込む途中でアボーンすると一寸辛い。 特に八つ当たり為れてPC使用不可の時には携帯でチマチマ打つのだが、打って居る最中に電池切れで「ジ・エンド」になると、大した苦労ではないものの駄文が水泡に帰す時なんかは一層辛い。 而も、比較的マトモな事柄を打って居る最中に良く起こる。 今日は当に其れなのだ。 |
2007年05月20日 23時51分38秒
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教皇様はブラジルへ行かれたが… |
聴く處に因ると、彼の國では教会離れが著しいそうな。 それで、離れた輩族の行き着く先は新興宗教やら擬似宗教らしく、それらの一部は『ニュー・エイジ何たら』と呼ぶらしい。
此は、公教会が『開かれた教会』構築にウエイトを置き、公教会が本来為すべき救霊事業を縮小、或は放棄したからではないだろうか? いざ『開かれた教会』を実現為せて観た処、開かれた教会へ足を向ける者は少なく、却って開かれた教会を後にする者が続出したのだ。 『開かれた教会』を創る為に実行されたのは、開け放たれた扉や窓から教会に伝承された生命や伝統的遺物を投げ出したに等しい革命的行為で在る。 此の革命的行為は伝統・伝承を敵視、或は蔑視、又は嫌悪すると云う革命に特有の風潮を産み出している。 元々、此等の伝統・伝承は天主様に因るモノだから、放り出した代替のモノを産物せねば成らぬのだが、其処は天主否定の革命家共の為す所業、巧妙に人間中心の教会、フェイク教会をデッチ上げた。 革命以前に教育を受けた者ならば、革命のもたらした害悪に対する免疫が少々在るので『其れらしい』体面を保って居られるが、今や其等も絶滅の危機に瀕して居り、主流は害悪に染まり悪癖に満ちた紅衛兵モドキが闊歩して居る昨今で在る。 だもんで、教会に伝承された生命や伝統的宝物が放り出された抜け殻同然の教会と、紅衛兵モドキのパフォーマンスに魅力がなくなり、公教会から人心が解離したのだろう、と謂っては度が過ぎて居るだろうか?
弩偉いらしい識者が宣うには、『代替』に伝統的なモノを求めるだとか何とか吐かしやがるが、抑、公教会に伝承された霊的生命や財産を放り出して、其の代替に新奇な眉唾モノのマヤカシを導入したのだから、此の伝統的なモノを求める行為とは、単に旧に復すだけなのだから代替では無いだろう。 特に、本邦では革命過渡期に伝統的な名残を体感した世代が、センチメンタル且つノスタルジックに浸る為に精々七夕程度に騒ぐ位で、此等は革命前に回帰する等と謂う大逸れた事は想いも付かぬ程に硬堅した頭脳を御持ちの御様子だし、間違って何かの弾みで思ってしまったとしも、決して口には出来ないだろう。 だから、弩偉いらしい識者が宣うた『代替』に極端な伝統主義を求めるだとか何とか吐かした矛先の見当は就くのだが(勿論、僕の様なチンケな輩か相手では無い)、其の様なセコイ印象操作に精を出すのならば、九条を死守する道義を、或は政教分離に介入する道理を聖トマス・アクイナスの神学に基づいて説き証して欲しいモノだ。
まっ、公教会破滅の為に教会を『開いた』紅衛兵モドキの中の革命の寵児の如き御仁だからね、弩偉いらしい識者は。
其にしても、革命後の公教会は何処ぞの反公教会団体宜しく『自由・平等・博愛』を謌っては居るが、其の執行に於ては屡々『強制的・抑圧的・不寛容』を行使するダブル・スタンダードは解せぬ。 どうやら、僕以上に恥の概念が無いらしい。 |
2007年05月19日 23時57分11秒
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一部一五八円もの値段をし、体裁だけは『カトリック』の名を冠していながら、内実は何処ぞの国家転覆画策国際社会主義団体に近似して居る機関紙の今週号には、此亦、身も心も頭の中も骨の髄迄真っ赤っかの詐称カトリック信徒が吠えて居る記事が在る。 書く輩も書く輩だが、載せる族も載せる族だ。 読む輩も読む族だな、僕も含めて(笑)
今号には載ってはいないが、カトリック系のパックス・クリスティとか申す国際的な団体が、実質的な国家転覆画策団体に何とか云う賞を遣ると謂う醜態を晒しやがった。 本来、反共で在る筈のカトリック教会が、在ろう事か容共を通り越して反教会主義者と協働・共闘を為した結果で在ろうか? 今回の授賞に依って、カトリック教会が反国家的且つ反民族的組織で在るかの如き印象を一層強く植え付けられるだろう。 何が「文化的受容」だ? 何が「福音宣教」だ! 此ではカトリックに対する誤った偏見を増長させるのみならず、天主が建て且つ定めしカトリック教会への敵対的行為で在り、カトリック教会解体に繋る行為ではないだろうか?
ファチマの聖母の御奨めに従うべき、否、一刻でも速く応えるべきではないだろうか。 だが、日本の司教団の中には憲法九条は奉献してもファチマの聖母には目もくれぬ輩が棲息して居る気がする。 日本には、現役では確固とした反共の紫衣は居られまい、緋衣も又然りだ。
矢張、良心的保守を自認自称する方々は沈黙為れるのだろうか? 彼等の出方を期待せずに傍観して診る心算で在る。 |
2007年05月17日 23時56分46秒
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嬉しかった |
今日の昼食にカレーを食べた。 久しぶりだった為か、凄く美味しく感じ、そして嬉しかった。 本当に嬉しかった。 |
2007年05月16日 23時43分07秒
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今日の発見 |
病院にて診察を待つ間、目の前を多くの妊婦さんが通り過ぎたが、皆一様に身篭って居る事実を誇りにして居る様な仕草で在る事に気が付いた。 だからと云って、妊娠の機会に恵まれぬ方を貶める心算は塵程にも無い事を申し添えておく。 幸せも誇りも多種多様かも知れぬが、カトリック信者で在る誇りとカトリック信仰に活きる幸せを忘れぬ様に勤め様。 日本國民で在る誇りと幸せも同様だ。 |
2007年05月11日 23時42分12秒
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心底から呆れる |
毎度の事だが、一部一五八円もする割には高比率で広告が紙面を覆い尽して居る機関紙の最新号は、「九条」を含む占領下憲法を創り押し付けたアメリカに対し、九条順守及び憲法への支持を呼び掛けたり、平和と正義を欺る偽善屋集団の宣伝と、中共官製抗告教会来日の煩伝、氾神的諸宗教合一主義に差し障る古聖所廃棄運動の喧伝に満ち、終には左翼用語の解説まで載ったり、果ては氾神的「崇敬」論まで飛び出す、相変わらずの似非カトリック機関紙振りで在る。
革新系はもとより保守系の機関紙でも政治噺で一杯で在る。 教会系信仰系の機関紙で、救霊の譚をせず政治噺に終始して居て、何が「良心的保守」だ!?どのツラ下げて「良心的」な「保守」で在ると詐称しやがるんだ!?と言って診る。 まっ、聖化(即ち霊魂の救いの為の浄化)を目指す割合が皆無に近い位の悲惨な状況を保守する輩族のツラなんぞ拝みたくもないケドね。 |
2007年05月10日 23時06分18秒
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奇遇 |
今日、思わぬ所で思わぬ方に遇った。 驚いたのは云うまでもないが、場所が場所だけに心底から嬉しかったりもする。
暫くしたら同所には外交官ナンバーを附けた車で乗り付けた、随分と場違いな面々が現れたが、コイツ等が大手を振って闊歩出来るのも今だけにして貰いたいが、そんな常識的な社会が実現するには暫くの年月が必要だろう。 久しぶりに血が騒ぎかけた。 |
2007年05月07日 19時00分50秒
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俺はこんなのは嫌だ! |
『嫌だ!』と云う以前の話だが……。
The Pagan Worship Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/St.%20Ann's%20flyer%202.jpg http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/Our%20Father.0.jpg http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/Triple%20arati.jpg http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/D'Sa%20arati.jpg
The Sailboat Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/sail.jpg
The Round Table Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/roundtable.jpg
The Native Indian Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/native%20indian.jpg
The Hindu Dance Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/hindu%20dance.jpg
The Dancing Priest Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/dancing%20priest.0.jpg
The Magician Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/magician2.jpg
The Extra Extra Small Table Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/minitable.jpg
The Extra Extra Large Table Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/lunch.jpg
The "Everybody is a Priest" Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/everybody.jpg
The Cookie Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/Cookie.jpg
The "Let's Give Communion to a Heretic" Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/Clinton.jpg
The Star Wars Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/star%20wars.jpg
The Rainbown Sash (Queer) Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/queer.jpg
The Buddha Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/buddha.jpg
The Dog Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/Dog%20Mess.jpg
The Picnic Table Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/Picnic%20Table.jpg
The Clown Mess http://photos1.blogger.com/blogger/6570/2571/1600/la%20rosa%20family004021.jpg
Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum: sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.(主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言を語り給え。そうすれば、私の霊魂は癒されるであろう。)の現行邦語の唾棄したくなるチープさ加減に通じるモノが在る気がする。
上記の画像に嫌悪を感じた方は此れも視れ。
What We Have Lost
http://www.piusx.org.pl/pobieranie/download.php?What%20We%20Have%20Lost.avi(AVI, 572MB) http://sound.jp/gregorio/whatwehavelost.wmv(WMV, 81MB)
どっちも内容は一緒。 |
2007年05月07日 19時00分15秒
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正義も平和も無い支那中共の暴虐にも敬虔に沈黙を守る似非平和主義団体 |
支那中共官製擬似教会が出来た頃はピオ十二世聖下の御代であったが、ピオ十二世聖下は此の似非教会団体を御認めにはならなかったが、此れは至極当然の事で在る。 嘗てのカトリック系機関紙・誌では、支那中共の暴虐をタイムリーに糾弾して居たものだが、今では旧時の面影すら無く中共に迎合するしか能が無いかの如き態で在る。
そう云えば、支那迄赴き地下教会信者に対し支那中共の迫害に屈して支那中共官製擬似教会に属せと宣った御仁が居たが、彼は後に枢機卿に親任されたので在った。 地下教会信者にとって支那中共官製擬似教会を認める事は、迫害に屈して其の信仰の棄教に等しいのだが、此の後の枢機卿様は地下教会信者に廃教せよと宣ったに等しくなる。 棄教を迫った大司教が枢機卿に親任されたのが不思議でならない。 一体全体どう云う事なのか理解出来なかったが、カトリック教会がエキュメニカル主義教会に変わったのだとすれば、合点出来る。 殉教をも恐れぬ信者は、エキュメニカリスト等からすれば「原理主義的狂信者」と云う「厄介者」に過ぎないからだ。
安っぽい正義と平和を唱える団体には、今現在、支那で実際に迫害に遭って居る地下教会信者に対して、天主の正義による糾弾と平和的手段による救済を為して欲しいものだが、中共と協働戦線を張って居る似非平和団体だから、期待するだけ無駄で在ろう。 聖座が今一度、共産主義を排斥して下さる事を祈る次第で在る。 |
2007年05月06日 22時30分24秒
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感謝 |
淳な心からの感謝。
聖エリザベトを訪問し給いし聖母を想う。 |
2007年05月05日 23時00分30秒
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続・恐るべし |
昨日は空港前の雪塊に驚いたが、今日は湖に厚い氷が張っているのを観て新たに驚かされた。 五月だと云うのに、湖が凍って居るので在る。 普通に驚いた。 |
2007年05月04日 23時16分12秒
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此処は日本だろ? |
何で雪が在るんだ? 五月だろ? しかも空港の真ん前に! 恐るべし! |
2007年05月03日 23時38分43秒
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昭和節 |
今日の佳日は先帝陛下が御産まれになられた佳節で在り、先帝様の御代では天長節で在った。 故に、本日を昭和の日と為すのは当然の事で在る。
聖ヨゼフの祝日を間近に控え、聖人への祈祷りに一層力を入れよう。 教友達よ、哀れなる吾が為に聖ヨゼフに祈祷り給え。 聖ヨゼフよ、我等の為に祈祷り給え。 |
2007年04月29日 23時50分17秒
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こりゃ、明確な拒否だな… |
一部一五八円もする割には紙面も紙数もペラペラなカトリック機関紙の最新号には、先の使徒的勧告を日本独立教会では明確に拒否する意思を表示して居るかの如き記事が載って居る。 アフリカの考えとか、アジアの考え方だとかを持ち上げてどうするのだ?カトリックの考え方が大切だろ? まぁ、カトリックの普遍性に徹底的に抗し、極地的な思考と嗜好に則った極めて限定的で偏狭的な独立教会を創りたい輩族が、調子に乗りすぎて自らの化けの皮を剥がした様なモノだな。 カトリック的な考え方をしたくない方が緋衣を纏っているのが不思議だ、そんなに嫌なら御一党共々カトリック教会から堂々と出て往かれては如何か?
改めて今週の第1面を眺めて看ると、世界召命祈願日の教皇様のメッセージがホンの少しと関連記事が在るが、他は、差別屋の記事一件、韓国教会の記事一件、中共御用教会の記事一件、惰性で存在して居る様な崩壊寸前の国連の事務総長のデシャバリ記事一件が掲載されている。 常日頃、日本の教会云々等と宣い脱ヴァチカンを画策して信徒を扇動或は誤導して居る割には、実は日本の記事が少ないのだ。
オマケに、支那中共御用教会の司教死去記事が第二面に在るのだが、この司教は全国人民代表大会常務委員会副委員長であったそうだ。 つまり、共産党員で国家指導者であったのだ。 この記事の横にはアリバイ造りの如く、支那で行方不明になって居る支那人司教の記事が在るのだが、どうせなら地下教会も含めた行方不明者や迫害の実像を伝えて欲しいモノだ。
冒頭に上げた緋衣の戯言だが、典礼にラテン語やグレゴリオ聖歌を用いるのが保守だと勘違いして居られる方々は、使徒的勧告に難癖を付けた緋衣の御仁には文字通り閉口し沈黙を守るのだろうか? だとしたら、やはり御都合主義の自己保身者確定で在る。 敢然とした態度で緋衣の戯言に整然と異義を唱え、自己を保守する位の気概を期待しては酷だろうか? |
2007年04月26日 23時40分10秒
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羅和辞典を購ってしまった、親愛なる教友へ |
今次、貴兄が為たためられし日記には、「Sub specie aeternitatis」に就いて言及為れて居ります。
これは「神法、神的秩序、神的価値、神的規範の光に照らされて居なければ為らない」と云う事を指して居ります。
頭の良く高い学識を御持ちの方々からすれば、此の貧しい無学の徒たる吾の述なぞ一笑の価値も無いでしょうが、「Sub specie aeternitatis」を邦語では「永遠の見地」と云われて居りました。
御参考迄。
まっくす 拝 |
2007年04月25日 20時33分07秒
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吾想う |
つい最近、日本在住のテロ国家国民が、日本の首都の目抜き通りをデモ行進した事が在る。 だが、この厚顔無恥にして日本を愚弄する行為に対する抗議に、今日の集会に参加為れた方々の半分でも佳いから参加して下さって欲しかったと思う。 |
2007年04月22日 21時25分10秒
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最悪だ! |
此れを冒?と謂わずに何と言う?
http://www.youtube.com/watch?v=sRULNTperWE
良識的保守を自称する方々は、此れを逸脱とでも言うのかも知れないが、そもそも逸脱が為され得たり、逸脱が許され得る環境こそが異常なのではないだろうか?
はっきり言おう。現在の保守と云う輩とは、此の様な?聖的行為をも許容し容認する立場の者をも指すのだ。
だから、何度でも繰り返す。 Legem credendi statuit lex orandi(祈りの規則が信仰の規則を定める)。 「教会の典礼は真の信仰を保つ為及び解釈する為の最も効果的な方法で在る」が故に、此の様な?聖的行為を行い得る典礼が含有する「モノ」に眼を向けるべきではないだろうか? そして、この含有する「モノ」を受容れられぬが為に、孤軍奮闘して居た故ルフェーブル大司教の発言を、一切の偏見を棄てて聴いて見るべきで在ると思う。 つまり、良識的とか保守的とか云う殻を一端脱いだ上で、故ルフェーブル大司教の主張を聴いて見ろと云うのだ。 きっと、良識的とか保守的とか云う殻が虚構の抜け殻に過ぎない事に気付くで在ろう。
今から四十六年位前の公会議開催前の事だが、既に今次公会議が「教会一致推進」の為の公会議だと賞讃して止まなかった御仁が居る。 つまり、公会議前に於いてはリベラル的な方だったのだが、今や「公会議後体制の保守派の重鎮」で在る。 もう一度「Legem credendi statuit lex orandi−祈りの規則が信仰の規則を定める」の格言を思い起して、此の御仁の公会議前後のスタンスを視て戴きたい。
此の御仁の対極、つまり「公会議体制後の改革派の重鎮」も居るのだが、此の御仁、昔は海軍将校だったらしい。 御自身の堅持して居られる御信念を、御自身が説く軍国主義国家に挺身する前に発揮して欲しかったものだとつくづく思う。
誰とは謂わんが、オピニオン・リーダーが問題点を履き違えるとミスリードを犯し、トラブル・メーカーに成り下がる好例で在る。 |
2007年04月19日 23時51分17秒
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感謝 |
自分にとっては気にもしない些細な事で有っても、他の方にとっては生死を別ける如くの重要な事で在る場合も在る。
だから、今を活かされて居る恩恵に感謝しよう。
今を活かされて居るるに過ぎない、全くとるに足らない者なのだから、他の方からの善意にも感謝しよう。
特に、自分を小さくして下さる行為を受けても、自己と戦って闘い抜いて、感謝出来る様に恩恵を乞い願い、祈祷り求めよう。
己の無価値なるを真に知り得る時が、真の幸福への第一歩、天国への確実な第一歩を歩み出せる気がする。
天主様に感謝!天主様を孕した御母にも賛美在れ! |
2007年04月16日 23時04分42秒
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聖化 |
聖化にも種々の段階と数多の道が在るのだが、今となっては良き指導者が絶滅に瀕して居て、限られた道しか辿る術がない本当に悲惨的な状態で在る。 しかも自省の出来ぬ者でも指導者に成れるのだから、もう末期的症状が露呈して居るに等しい。
だが、天主様は全き善で在るから、全き真の信頼を持とう。 |
2007年04月14日 23時58分24秒
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そうだ! |
イエズスの聖心へ逃げ込もう! |
2007年04月13日 23時13分42秒
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人権蹂躙国家に媚びへつらうカト機関紙 |
一部税込み158円もするカトリックの機関紙には、支那中共政府の傀儡団体である愛国教会擁護の記事が第1面と2面に載せられている。
店頭に並んだのが、丁度支那中共の御仁来日と時を同じくして居り、これなんぞ人権蹂躙国家要人来訪熱烈歓迎の意を顕して居る様なもので在る。
いわゆる公認教会が、中共の管理下に在らぬ如きの論述をする鉄面皮ぶりで在るが、半世紀余りの間、聖座の承認なき公認教会用司教叙階を強行させ続けたのは中共で在る事は衆知の事実で有っても、支那中共隷属を渇望する売教奴には事実は不問なのだろう。
本年版のナンタラ・ハンドブックにも、支那中共傀儡団体礼賛とも取れる特集記事があったが、何とか協議会は矢張り無神論者の走狗、或は無神論者の巣窟に成り下がりつつ在のかも知れぬ。
そう言えば、栄転なのか左遷なのか解らぬ処遇を受けた御神輿神父は健在なので在ろうか。 |
2007年04月12日 22時46分31秒
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主、真実に甦り給えり! |
最近は、主イエズス・キリストの復活を信じていないカトリック信徒も居るらしい。 前にもほざいたが、主の復活を「信じていない」とか「わからない」とか宣った時点でカトリック信徒では無くなるのだが、何故かカトリックに固執し続けカトリックを詐称している輩族の事である。 サッサと御自身の信条に合致した教派へ移られるか、御自身に都合の好い教派を創設なされたらどうだろうか。
主の復活を信じていないのに「ご復活おめでとうございます」何て吐かす、本当に不可解にして不誠実極まりない輩族である。
だからこそ、一層高らかに唱い宣言しよう。
Scimus Christum surrexisse a mortus vere: tu nobis, victor Rex, miserere. Amen. Alleluja. (我等は知る、キリストは実に死者の中より甦りしを。勝利者なる王よ、我等を憐れみ給え。アメン。アレルヤ。) |
2007年04月09日 23時45分21秒
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アレルヤ!アレルヤ!アレルヤ! |
縁在る総ての敬愛なる方々へ、衷心からの御慶びの挨拶と拙き祈祷りを贈ります。
貧しき為れ共吾が親愛の念情を御寛容を以って御享受下さい。
主イエズス・キリストの御復活の御慶びを申し上げます。
天の元后、慶び給え、アレルヤ! |
2007年04月07日 23時54分47秒
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聖金曜日 |
吾が救主を十字架に磔けよ!と叫び、御顔に唾し、御体に笞を伐ち、御額に棘の冠を被せ、十字架の剄木を荷わせ、十字架上に釘付けにせしは吾也、罪深き吾也。 天主よ、願わくは我等を憐れみ、我等を祝し、その御顔を我等の上に照らし、且つ我等を憐れみ給わん事を。 主よ、我等主の十字架を礼拝し、主の聖き復活を讚へ且つ栄えしめ奉る。そは看よ十字架の木に依りて全世界は歓喜に充たされたればなり。 甘味なる木、甘味なる釘、汝が担えるはかくも甘味なる荷也。 |
2007年04月06日 23時52分10秒
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聖木曜日 |
今日は聖木曜日、聖週間の第五日目にして主の晩餐を記念する日でも在る。司教座聖堂では聖香油ミサも行われる。 本日より聖週間のクライマックス(テネブレ)が始まる。
敬愛なる聖師母の娘達が、恋焦がれた主の御体を拝領する日でも在る。僕も霊的に彼女達の御ミサ聖祭と聖体拝領に立ち会い、霊的聖体拝領を受けよう。 嗚呼、天主よ、あの信心深き御彌撒聖祭に毎日与かれる恵みを垂れ給え! 天主の御母の汚れ無き御孕りは永久に讚美せられさせ給え! |
2007年04月05日 09時34分19秒
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嗚呼、主よ、 |
病と云う御恵を賜わり、衷心より感謝し奉る。願わくは、此賜物が我が救霊を援く現世にての浄化めに為らん事を。 最とも清浄なる天主の御母よ、今も臨終の時も御身の不肖なる子たる吾が為に祈祷り給え。 |
2007年04月04日 23時57分09秒
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僕が云うのも何だが |
教皇不謬権に反対する新教やら正教やら何やらは、教皇が天主様の如く、何を行っても罪を犯さず、絶対に何事にも誤る事が無い権利を持って居る事だと勝手に解釈し、この前提から出発して反対して居る様なのだが、在ろう事か、今時のカトリック信徒の中にも同じ前提を執って教皇不可謬権を捉えて居る不届き者が居て、こんなのは得てして自分がウルトラ・モンタリスト、或はパピストに陥って居る事に気付かないらしい。
カトリック教会は教皇が罪を犯さないとか、教皇の個人的な思想、研究、教訓等に全然誤りがない等と主張しているのではない。
また、その研究の結論、新啓示を受けたとか、職権上の決定とかが真正完全なもので在る等と主張しているのでもない。
カトリック教会が主張する教皇不可謬権とは「キリストから委託された聖教えを忠実に保管し、不可謬的に解釈する様に与えられた職権者によって、全教会が義務付けられるべき信仰及び道徳の問題に関し、決定的に教える権利である」そして、それはキリストと聖霊との天祐神助により、誤った教えから現実に汚されずに保護する権利で在る。
この場合、人間が不可謬となるのではなく、当たり前の事だが、教皇の内において天主が不可謬で在る事を意味するので在る。
先に述べた通り、アンチ・カトリック的誤謬をもって教皇様の擁護に躍起に為って居る、真に変な輩が居るのだが、傍迷惑なので辞めて欲しい。
カトリック原理主義ならぬ「第二ヴァチカン公会議原理主義者」には、先ず無理だろうが。
今に始まった事ではないが、日本のお偉い教役者は、「カトリック教」よりも「第二ヴァチカン公会議」を信仰して居るから、教皇様の意に反している事を公の機関紙で表明出来るのだろう。
この教皇様へのあからさまな不快感の表明、不従順の予告に対しては、ウルトラ・モンタリスト君、或はパピスト氏は自己擁護の為に沈黙を守るのだろうか?
まあ、己のダブル・スタンダードを恥じる気概も無いだろうから無理だな、きっと。 |
2007年03月30日 23時02分53秒
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そう云へば |
師匠神父様の帰天日も過ぎてしまった。 跪いて学ぶ事を身を以て教えて下さった事を思い出す。 いつも天国に憧れて居た良き牧者だった。 |
2007年03月27日 23時02分31秒
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昨夜の追記 |
「インダルト」や「エクレジア・デイ」は、第二ヴァチカン公会議による典礼改革を受け入れ、其に対して些かの疑義をも呈しない事が前提なのだが、本当に典礼改革を受け入れるならば、其の改革が導入される前のルブリカに則ったミサを欲する事其れ自体が、自己矛盾に陥って居る事を指摘してみた
真に典礼改革を受け入れるならば、少なくとも1965年から施行された「階段祈祷のJudica meを廃し」、「クレドの中の跪きを年二回の例外以外は身を屈める事で廃し」、「得てして水平的祈祷を彷彿させる祈願が盛り込まれる共同祈願を導入し」、「元来、低声で唱えて居た為に密唱と言われて居た祈願を声を上げて唱え歌わせる事で密唱では無くし」、「信者への聖体授与時に司祭が『我等の主イエズス・キリストの御体、汝の霊魂を永遠の生命の為に守護り給わん事を。アメン。』と唱えつつ、十字架の印をして信者に御聖体を授与していたのを廃し」、「終わりの福音を廃し」、「レオ13世の命によるミサ後の祈祷を廃し(未だ在るが割愛する)」たルブリカに則ったミサを受け入れさせ、捧げ、与かり、或いは求めるのが筋で在ろう。
だが、実際には典礼改革着手以前のルブリカに則ったミサが捧げられ、求められ、又、聖座も許可を与えるので在る。
此では、典礼改革を表面だけで受け入れて、内実では拒否する様な面従腹背と云う不誠実を聖座が許容し且つ強要して居る事になるのではないだろうか?
此を成不利構わぬ支離滅裂な態度と云うので在るが、此の滅茶苦茶な態度に誠実さが見受けられると詐称保守が曰うのだが、何処に誠実さが見受けられるのか僕には判らない。
再び述べるが、確固足る裏付けの無い、単なる感傷的な動機だけで、面従腹背をしてまでトリエント式典礼に固執するのは、「インダルト」や「エクレジア・デイ」を受け入れた人々で在り、故ルフェーブル大司教様や聖ピオ十世会や其の関係者では無いのだ。
それに、破門制裁と云うものは極めて恣意的な事に見える。
師父の忠実な娘にして第二会の師母が、時の教皇様の意に反して財産を所有する事を拒んだ為に破門を受けたと恩師に伺った事が在るが、此等、教会の規範と清貧と云う違いこそ在れ共、恣意の際足る例ではないだろうか。
残念なのは、師母への制裁が何時解かれたのかを聴かなかった事だ。
教会の規範を守ろうとした故ルフェーブル大司教と、師父が愛した清貧を守ろうとした師母のフィアットが、本日祝われる天主の御母のフィアットに重なり合う様に思われて為らない。 |
2007年03月26日 23時36分59秒
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+R.I.P. Marcel-Franciscus Lefebvre Archepiscopo |
例年ならば本日は「聖母の御告げ」の祝日なのだが、今年は主日とバッティングしてしまうため、明くる26日に其の座を譲る事になるが、本日は故マルセル・フランシス・ルフェーブル大司教様の命日でも在る。
帰天された年は、聖週間の聖月曜日だった。
自称保守を詐称為される方々が、此の大司教様や聖ピオ十世会及び其の関係者に対して「旧典礼に固執している」等と評される様だが、此は誤評で在る。
何故ならば、大司教様や聖ピオ十世会や其の関係者等は、いわゆるトリエント式典礼を堅持する明確な表明を為さって居るのだから、固執等と云う、ややもすれば「偏狭」を連想させる様な言葉を用いての印象操作は、健全な精神を宿した者が為す事とは思われないので、端から悪意を持った偏見含有者か、軽重の差は在れども常軌を逸脱した者の所業で在ろう、埒もない。
だが、本当の意味でトリエント式典礼に固執して居るのは、1984年の特別許可(便宜上、此を「インダルト」とする)を願う人々や1988年の自発教令(便宜上、此を「エクレジア・デイ」とする)を求める方々で在る。
先に述べた通り、故ルフェーブル大司教様や聖ピオ十世会や其の関係者等には、トリエント式典礼を堅持する明確な信仰的な根拠が在る事を表明して居るのだが、「インダルト」や「エクレジア・デイ」の追従者には、トリエント式典礼でなければ為らない何等の根拠を表明せずに其の典礼にこだわって居るので在るから、此を固執と謂わずに何と云おう。
大体、「インダルト」にしろ「エクレジア・デイ」にしろ第二ヴァチカン公会議に異を唱えず其の改革を受け入れた上で初めて、トリエント式典礼を挙行する許しが得られので在るそうだが、そもそも、公会議後の改革に疑義を持たず、且つ改革の結実を受け入れるのならば、何故改革為れる前の典礼式を欲するので在ろうか。
此は、右を向いて公会議の改革を佳しとした口で、左を向いて公会議の改革に異義を唱える様なもので在るから、まともな感覚を持った人間には耐えられる筈が在るまい。
此処までしてトリエント式典礼にこだわる姿勢を固執と評したのだが、如何なもので在ろうか。
巷では、トリエント式典礼の無条件による開放が噂為れて久しいが、若しも其の様な動きが在れば、此は偏に故ルフェーブル大司教様の御陰で在る。 「インダルト」や「エクレジア・デイ」と言った抑制下だけでの制限為れたトリエント式典礼の執行を受け入れる事は、己の堅持する信仰、特に、聖ピオ五世聖下の「クオ・プリームム」に真っ向から反する行為でも在るからだ。
又、「インダルト」にしろ「エクレジア・デイ」にしろ、抑圧された制限下とは云え、公式的にトリエント式典礼を挙行し、其に与かれる機会を仮染めにも聖座から引き出してくれたのは、他でも無い故ルフェーブル大司教様なので在る。 偏狭な典礼オタやラテン語聖歌オタには無理だろうから期待はしないが、トリエント式典礼に何等かのポジティブなモノを感じる方に、彼の大司教様の為に祈祷を為し頂きたいと願う今宵で在る。 |
2007年03月25日 23時54分13秒
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おいオイ…2 |
某年某月某日某所にて、典礼にグレゴリオ聖歌を用いて居るから「伝統を大切にして居る」と宣って憚らない輩が居た。 時にはグレゴリオ聖歌だけでなく「ラテン語」も典礼に用いて居るので、其の御仁と輩族は自らの郎党を「伝統の牙城」の如く自讃して居るのを小耳に挟み、多いに笑わせて貰った事が在る。 彼の御一党には悪いが、そりゃ単なる嗜好の問題に過ぎないだろ?っーの。 グレゴリオ聖歌を歌って気持ち良くなって、偶にラテン語に触れて好い気に為ってるだけだろ? そもそも、何故に御一党さんの単なる嗜好が「伝統を守って居る」事に成るのか見当も付かぬのだ。
例えグレゴリオ聖歌を用いてラテン語でミサを捧げたとしても、其のミサを捧げる司祭がマルクス・マンセーな奴だったり、ハンス・キュンク崇拝者だったり、避妊・中絶推進者だったり(例が一杯在り過ぎるので割愛する)、何よりも、実体変化を信じて居ない奴で在っても、ラテン語やグレゴリオ聖歌を典礼に使えば即伝統を守る事に成るのかい?とカラカイ乍聴いて視た事を思い出した。 聖変化なんてオトギ噺、聖体は単なる象徴なんつータワケた事を吐かす司祭で在っても、典礼にラテン語やグレゴリオ聖歌を用いれば御一党さんの嗜好には願ったり叶ったりだから充分なのかも知れないが、其の何処が伝統を守る事に成るのか心底から解らないので在る。 因みに、今に至るまで解答は頂けて居ません(笑)。 まっ、カトリック教会における(ひいては全人類にとっても)最高の祈祷を、嗜好錯誤の実験の場にしても何等憚らぬ族共なので期待するだけ無駄だろうと思っは居るので、端から期待はして居らぬのだが。
最近は何故伝統を護るのか分け判らん信徒が増殖されて居るらしいから、伝統っぽいモノ、つまり古臭い様な事と云うモノが(恐ろしく短絡的過ぎるのだが)、伝統を識別する尺度に為って居るらしい。 保守とか中庸とかを詐称して止まない信仰篤き方々の尺度は確りして居る様子なので心配なぞはしないが、くれぐれも此の無学無徳の哀れな罪人を呆れさせて下さらないで頂きたいもので在る、マジで。
でも、ラテン語やグレゴリオ聖歌で気持ち良くなって居るのと同じで、保守とか中庸とかのスタンスに居る(と錯覚して居る)自分に酔うて居る程度の族が多いらしいので、此も期待はして居らぬので、どーでも好い事なのだが、敢えて吹聴してみる次第で在る。 |
2007年03月12日 23時14分57秒
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おいオイ |
毎主日や祝日の等級によってはミサ聖祭に於いてクレドいわゆる使徒信経或は信仰宣言等と謂われて居るモノを唱えるか歌う。 これは単に歌ったり唱えるに止まるのではなく、信仰の主要な箇条を信じて居る事を表明するので在る。 一言一句、疑う事なく確固として信じて居る事を宣言するので在るが、然し、昨今では曖昧な侭、つまり信じぬ侭の状態で唱えて居る輩が多い様だ。 言い換えれば、カトリック教会の教える要理を信じぬ者でもカトリック信者に成れてしまうと云う事で在る。 こんな似非カトリック、フェイク・カトリックが偉そうに自称カトリック的な御託を、恰もカトリックの公式見解の如く述べて憚らないのだから始末に負えない。 雑言を垂れる前に要理をやり直したら如何とも思うが、偉そうに論評擬を垂れる位の輩だから期待するだけ無駄だろうが、カトリック信者として信ずべき事を信じて居ないのだから、カトリック信者で在る事を公表しないで欲しいものだ。 第一、信ずべき事を敢えて信じなかったり、信仰箇条に異義を唱えたりするその態度こそ異端で在ろう。 本当にいい加減にして欲しいものだ。 信じたくないのならカトリック教会から出て往けば良いのだが、実際には出て行かぬのだから本当に始末が悪い。 カトリック教会に寄生して害悪を巻き散らす為に出て行かぬのだから、駆除しなければ為らないのだが、寄生害虫に蝕まれたカトリック教会自体の自浄作用能力が低下しきって居るので駆除が敵わぬ気配が漂って居る。 こうなるとイエズス様の直接介入以外では一種の荒療治が必要になるのだが、最後は教皇様次第に成るのだから教皇様の為に祈らなければなるまい。 何はともあれ、信仰箇条の一条に対してで在っても確固として信じて居ない者にカトリックを詐称して欲しくないし、カトリックだと詐称しての雑言を垂れ流して欲しくないものだ。 |
2007年03月12日 21時42分11秒
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福音的博士 |
福音的博士とはパドヴァの聖アントニオを指す。 エリート聖職者で在った彼がフランシスコ会に入ったのは、殉教に憧れて入会したと云われて居る。 入会直後の彼の謙遜、特に司祭で在った彼の謙遜を想う。 彼は(師父と同じ様に)沈黙と祈祷りのうちに、その知識を昇華させて行ったのではないかと僕は思う。 |
2007年03月11日 20時19分22秒
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敢えて一言 |
信仰に就いての事柄と云うものは、知識の習得だけではなく跪いて学ぶ事も大切だ。 知覚では解り得ぬ事を教われるのだ。 天主様は賛美せられます様に! |
2007年03月09日 23時11分04秒
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これからドック入り |
往って参ります。 |
2007年02月27日 08時20分57秒
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感謝 |
天主様に感謝! 天主様へ永遠に賛美在れ! |
2007年02月24日 23時52分36秒
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懐かしい再会 |
先日、某所へ挨拶しに行く途中、古書店の店先のワゴンに某師の書籍が無造作に置いて在るのを発見した。 師はPER MARIAM AD DEUMの言を贈って下さった方で在る。 中身を改める事なく購ったのは言うまでもない。 師が帰天されてから八年に成る。 購った書籍は僕が産まれた年に出されたものだったが、論述の仕方が僕の知ってる師の語り方と同じで在ったので、師に久しぶりに会えれた様な気持ちになって嬉しかった。 師も師父縁の地に行き、あの空を仰がれた事を知った。
師よ、我等が為に祈祷り給え!
PAX ET BONUM! |
2007年02月23日 23時46分57秒
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過ぎ往く睦月 |
昨日、某所で思いがけない方とお会いした。 真面目で誠実を絵に描いた様な、僕とは真逆のタイプの方で在るが、其の真実故に心の底から尊敬出来る方で在る。
今日の聖人も第三会員だったのだが、某会の創立者で在り、某会の霊性は聖創立者独自の霊性で在る事を強調したいが故に、某会では聖創立者が第三会員で在った事実を認めたくない様子だとか何とか…と以前に伺った事が在る。 某会の政治的な思惑が如何で在れ、羅馬熾天使家族の暦にはシッカリと『III Ord.,』と標されて居り、此からも羅馬熾天使家族の聖人の一人としてシッカリと祝われ続けられるで在ろう。
昨日お会いした方も善き『第三会員』に成られます様に祈る今宵で在る。
くれぐれも「在○会員」ではなくて『第三会員』で在る。 両者は経譜が列なって居る様に錯覚してしまうかも知れませんが、現在○会は第三会との霊的・歴史的な断絶を事実的な前提として改編(改竄)されて居る気がします。 僕的には全くの別モノとして捉えて居るのです。
多くの修道会家族が、第二ヴァチカン公会議の精神を御題目とし、源泉回帰を御旗として繰り広げられた数々の革命的実験の結実の様相を診れば、僕が別モノとして捉えて居る理由が己自と解るのではないかと思います。 源泉回帰としながらも、歴史を遡る事、つまり歴史的発展や蓄積を顧みつつ創始の頃に歩み寄るのではなく、首謀者達の謀欺に因り源泉と想定される概念への執拗な全体主義的抑圧的煽導と、其に伴う全権威・全既成の否定と放棄と破壊と謂う一連の過程(出来レース)を眺めて診れば、多くの修道会家族が遭遇した源泉回帰とは名ばかりのキナ臭い動向だったと云っても過言では無いと思います。 此のキナ臭い御旗と謂う毒牙がもたらしたのは荒廃の爪痕でしかなく、御多分に漏ず第三会も名称を始めとするあらゆる事柄に革命的変革が為されたと僕は認識して居ります。 第一、源泉回帰するのでしたなら、それこそ原初の頃の会称に戻るべきなのに敢えて戻さなかったのは、悔い改めの業から回避する為だろうと勘繰って診て居ります。 更に、在世第三会と云う会称から「第三」と云う言葉を取り除いたのは、修道家族と云う実質的概念を弱めさせ、修道会員身分で在る事実から生ずる義務から逃避する為だろうとも勘繰って診て居ます。
そんな訳で、誠に大きなお世話かも知れませんが、善き第三会員と成られます様にお祈祷り申し上げて居ります。 |
2007年01月31日 23時39分21秒
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少しづつゆっくり |
善は傳播すると謂う。
福いなる人々と出会ったので、何かが少しづつ、ホンの僅かだが少しづつゆっくりと変わって居る様な、伝わって着て居る様な、そんな気がする。
善程では無いにせよ、少なくとも何か良い事の様な気がする。
天主様に讚美と誉れ在れ!今も何時も永遠に! |
2007年01月29日 23時29分09秒
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感謝 |
天主様、及び縁在る多くの方々へ、衷心より感謝申し上げます。
イエズス・キリストは讚美せられさせ給え! |
2007年01月25日 23時53分46秒
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指輪の交換 |
羅馬の某修院で、一人の兄弟と親しくなった。 祖国から羅馬へ派遣されて五年、直に政情不安定の地へ派遣されると言う。 次の派遣地に於ける心身の危険を心配すると、「心配には及ばない、殉教出来る」と平然と答えられた。
思えば恩師も殉教に憧れて宣教師を目指したそうだ。 司祭叙品後、宣教地への派遣はお預けで、従軍司祭や病院付き司祭を命ぜられ、念願の殉教地ならぬ宣教地への派遣迄の数年間、課せられた任務を黙々とこなして居たらしい。 殉教への憧れを抱いた十歳の頃からの念願が叶った恩師の喜びは如何ばかりだったであろうか。
と云う事を思いながら、此の兄弟の信仰心に心を打たれた。 本当に、何処ぞの平和と善が伴わぬコスプレ如きの格好だけの兄弟擬とは雲泥の差だとシミジミ感じた。
別れ際にお互いの指ロザリオを交換し合った。 僕のはチープな指ロザリオだったが、兄弟の指ロザリオは銀製の立派なものだった。 余りの価格差に恐縮して居たが、兄弟は意に関さず、逆に喜んで居た。 もう地上では祈りの中でしか会えないかも知れないから、天国で会えるのを今から楽しみにして居る。 その時には、チビた指ロザリオを見せ合い比べ合うのかな?等とお馬鹿な事を考えて居る。 その為にも一層天国を目指す努力をしなくては為らぬと自分に云い聴かせて居る。
イエズスの聖名は讚美せられさせ給え! |
2007年01月18日 23時55分54秒
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違和感 |
産まれて此方、三度しか祖国を離れた事が無い。 先の二回共、帰国した途端に「やっぱり日本が良い」とホッと安堵したものだった。 だが、今回は違った。 意志の疎通さえママならないのにも関わらず、今日の天気予報さえ知る術も知らぬにも関わらず、帰りたいと思わなかったのであった。 我ながら不思議で在り、そんな自分に違和感を感じても良さそうなものだが、それさえ無い。
師父縁の街で拝見する事が出来た師父を描いた壁画の殆んどは、裸足姿の師父を描いて居るのに気が付いた。 弟子達はサンダル履きなのに師父は裸足姿で描かれて居るので在る。
行程中には百人前後の現代の弟子達を見た。 サンダル履きの弟子達は何人か居たが、皆靴下を履いて居り、誰一人として素足にサンダルを履いた弟子達はいなかった。
師父と師母が召された修道服を拝見した。 茶色でも黒色でもなく灰色ぽい色だった。 修道士との差別用に灰色の修道服を司祭に用いさせる修道会が在るが、似ているのは色調だけで生地の質感が全く違って居た。 師父や師母の召された修道服は、本当に素衣だった。 現代の弟子達が着用する修道服の生地の好さとは比べものにならない位の素衣だった。
だが、最後に会った兄弟姉妹は、師父・師母が召されたのと同様の素衣を着用し、文字通りの裸足だった。 此の兄弟と姉妹達に出会えて本当に良かった。
全き善で在られる天主と御摂理に感謝。 |
2007年01月17日 23時08分27秒
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墓参り |
恩師の墓参りをしたくて、帰天した地を訪れてみた。
受付に陣取って居た方の言動には、『平和』や『善』の欠片も見出せなかったのが残念であったが、日本でも似た様な方々が棲息して居り、見慣れた身にとっては別に特異な事では無いので、受付人の人格的な是非は兎も角、実は修道会の体質なのかも知れない。 余計なお世話かも知れないが、この様な方々の存在を非常に残念に思う。
指定された場所へ往くと、現地語でロザリオを唱和して居る声が聞こえる。 通り掛った看護婦の方に恩師の墓所を伺うも、意志疎通が巧く行かず他者を待つ。 腰掛けた場所に在る掲示板に目を遣ると、物故者一覧に恩師と恩師の同僚の名前を見出した。 互いに励まし乍、老いを享受して居た彼等だが、同僚が帰天されて間もなく、後を追う様に恩師も帰天された事を物故者一覧の掲示によって改めて知る事が出来た。
程なくして、一人の方がロザリオを爪繰り乍ら来られた。 「ミ・スクー……」と話し掛けた途端、爪繰って居るロザリオを掲げられた。 一瞬、何の仕草か解り兼ねたが、直ぐに「ロザリオを邪魔するな」の意志表示なのだと言う事に気付けたのは、以前にも何処ぞで経験済みだからで在る。 其の時分は、其の意志表示法を見て「敬虔で信心深い方だ」と思わされて居たが、恩師に会ってから後は「コヤツ逃げたな」と解る様になった( 逃げた相手が司祭で在った場合は特に。)
暫くして、会の或種の記章を首からぶら下げ、やはりロザリオを爪繰り乍歩いて来る方を発見した。 「今度も逃げられるかも」と思いつつも聞いてみた処、「平和と善」に満ちた忍耐を伴った教示によって、恩師の墓所は此処の都市に無い事が判明した。
落胆為なかったと云えば嘘になるが、だからと言って落ち込んだ訳でも無い。 昨日迄の体験から「此も天主様の聖旨」だと天主様に感謝しつつ外に出た。
何時の間にか外には霧が立ち籠めて居た。 霧の中を歩いて居たら、此の霧の発生は恩師からの感謝と祝福の意の現れだと解ったのだが、其の途端に両眼から涙が溢れ出て来た。 |
2007年01月15日 23時28分56秒
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只今 |
帰還セリ!
天主様に感謝! 皆様の御祈祷りにも感謝! |
2007年01月14日 20時53分19秒
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謹賀新年 |
天主なる主に讚美と感謝! |
2007年01月02日 23時50分41秒
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Te Deum. |
皆様、本年中には一方為らぬ御高配を賜りまして、大変恐縮致すと共に、心より御礼申し上げます。 特に深広なる御忍耐を都度賜りました事にも感謝致します。 此の不肖なる罪僕は来年度も確実に御迷惑を御掛け続けますが、此の哀れな罪僕に対し、旧倍の御寛容と御祈祷りを賜り下さいます様に、御願い申し上げます。
今年一年を通して天主様から豊かに賜った御恵みへの感謝と、我が罪咎を悔い改め、来る年には一層豊かで必要な御恵みを賜ります様に聖堂へ詣で祈祷って来た。 また、縁故在る多くの方々の為、特に病人の方々の為、そして死に臨める方々の為に、天主様の豊かで寛大な御憐れみと、聖母の御伝達を乞うた。 そして何よりも洗礼と信仰の賜物を頂いた事を改めて天主様へ感謝し奉った。
拙き祈祷りの中に。 |
2006年12月31日 22時59分54秒
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連絡 |
http://www.geocities.jp/sanctae_romanae_ecclesiae/oabmv.jpg |
2006年12月27日 10時26分24秒
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吾主御降誕 |
天に於いては天主に栄光在れ、地に於いては善意の人々に平安在れ。
今宵の聖福音『其の時、天下の戸籍を取調ぶべしとの詔、セザル・オウグストより出でしが…(略)。』を耳にすると、何時も大草原の小さな家の中で、「父さん」が該当箇所を朗読していた場面を思い出す。 前後の脈絡は覚えて居ないが、其の場面だけは覚えて居り、御ミサ中に此の章句を耳にすると降誕を実感すると共に、「父さん」の姿が思い出される。
天主に感謝し奉る。 |
2006年12月25日 01時55分22秒
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唯只菅 |
祈祷ります。 |
2006年12月20日 23時51分05秒
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取り返さねばならない顔と取り戻さねばならぬ矜持 |
本日夕、都庁南展望室へ行って来た。
少なくない方々が足を止めて展示に見入って居られのを見て、隔世の感を覚えずには居られなかった。 見向きもされなかった頃を思えば、やはり国家やマスコミの影響力は大きいのだと実感した。 何よりも、運動を続けられた方々の多大なる苦しみの結実で在る事は言うまでもあるまい。
此の様な催しには機会が在れば出掛ける事にして居るし、掲示内容も反芻して居るのだが、何時も展示されて居る写真を拝見する度に新たな哀しみと怒りが込み上げてくるのを覚え、其を堪えるのに苦労するので在る。
同胞を拐った犯罪国家への怒りは云うに及ばず、其の罪科が明らかに為った犯罪国家を擁護し続ける勢力への怒り、そして、苦しめる同胞への無関心に対する怒りを覚えるのだ。
此度足を運んだ会場は観光スポットでも在るのだが、北韓糾弾を訴えるパネルに尻を向けて観光に興ずる輩共が少なくないし、犯罪国家の親玉たる犯罪大国から観光に来た支那人も目に着いた。 他人様の縄張りなので、無関心の輩共に喚起を促したり、犯罪国家を庇護する犯罪超大国から輸出されて着た支那人の犯罪を糾弾する訳にもいかないのが歯痒かったりもするが致し方在るまい。
主催者側の要員確保の問題も在るのだろうが、一七三○には閉鎖してしまう南展望室よりも夜遅くまで入場が出来る北展望室で開催したら良いなとも思ってみたりもする。
犯罪国家から奪還せねばならない方々の御顔を拝して居ると、其所彼処に佳き日本の顔が視られる事に気付かされた。 どちらも一秒でも早く取り返し取り戻さねば為らぬので在る。 |
2006年12月16日 23時35分15秒
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恩師の祈り |
恩師が帰天されてから約一年の月日が過ぎた。
生前の恩師より賜った祈りの量に比して、我が祈祷りの少なさを恥じて居る。
恩師の為に一層祈祷る事にする。 より一層の援護が欲しいから。
肉体の不自由が無くなった恩師は、きっと、生前よりも比べ物に為らぬ程、援けて下さるだろう。
未だ煉獄にて苦しんでるやも知れぬので、恩師の霊魂の浄めの早期解放をも祈祷って居る。
恩師よ、あなたのお陰で告解室に跪づく事が一段と好きになりました。 もっと贖宥を譲る事が出来ます様に、護り導き援けて下さい。 聖母よ、恩師が御身を愛した如く、僕も御身を愛せますように! |
2006年12月12日 23時31分58秒
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赦しと癒し |
都内某教会では告解を待つ信徒の列を何時も見る事が出来る。
告解を年に1・2回受れば良いイベントの如くに捉えさせ、其れを吹聴しまくる聖職者の方々の眼には、或いは、自分の管轄教会の告解室を普段は物置小屋にして居られる方々の眼には、此の光景はどの様に映るので在ろうか?
教会離れが嘆かれる昨今だが、会議だの研修だのにウツツを吐かして嘆くならば、まずはカトリック教会的救霊の為に心身を摺減らしてから嘆かれら良いと短絡的乍思うのだが、如何なもので在ろう?
癒しだの何だのが騒がれて久しいが、本当の癒しは主イエズスの救霊事業にこそ見出されるべきで在るし、其れは紛れもない事実で在る事を、今日告解室に跪き乍確信した次第で在る。 |
2006年12月09日 23時52分36秒
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大東亜聖戦開戦記念日 |
六拾伍年前に宣戦布告した相手国に手なずけられて居る現在のていたらくを見ると、父祖達の執った行動には間違いが無かった様に思われる。 其意味で御先祖様に感謝申し上げる日でも在る。 戦争行為の是非は言う迄も無いが、当時の近現代的先進国世界の殆んどを相手に闘い抜いた祖父達の勲功は讃えられて然るべきで在る。 |
2006年12月08日 23時21分12秒
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祷人 |
暗い聖堂に足を踏み入れ、聖櫃の方を向き跪拝した後、聖母の方に眼を遣ると、薄明かりの中で額着き乍祈って居られた方が居た。 何を祈って居られたのかは解らないが、其の姿に魂を揺さぶられ、此の御方の意向に併せて祈った。
主の御尊前に跪き、コンタツを爪繰る幸せに感謝。
今日は聖ザベリオの祝日でも在った。
Salus me! |
2006年12月03日 23時13分16秒
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天主に感謝し奉る。 |
聖下が御無事で何より。 某新聞社はガッカリでしょうがね。 |
2006年12月01日 23時58分06秒
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再び |
新しい一年が始まる。 Adsum! |
2006年11月30日 23時57分20秒
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造反組の首領 |
集会や講演会等で平沼先生の御姿を度々拝して居たが、僕が拝した限りでは、他の弁士が登壇して居る間は身じろぎもせずに、キチンと着座し他人の弁論をジッと拝聴して居られる方だった。
其の凛とした姿に好感を持って久しい。
今回の郵政造反組の復党問題でも、其の問題の渦中のド真ん中に居ながら、些かもブレない姿勢と、端正に座して居られた姿が重なって見えた。
復党条件とされる課題の受諾に於ける政治倫理的問題の是非に就いては、政治的理念や信念が打算や思惑に優越したとかしないとか外野が騒いでも仕方がない事だし、復党した方々の今後の働き如何に依って地元有権者が投票と云う是非で在る処罰を下す事に為るので、今の処、素人は黙っておく。
だが、耻を忍んで頭を下げて居る者に対する某○事長の態度だけは解せない。
土下座して居る者の頭を踏み突け唾する如き姿は為政者に在るまじき行為ではないか。
いみじくも国政に参与する者が『イジメ』を正当化して憚らないのだから、本当に此の国は何も彼もが疲弊しきり、其所かしこで断末魔の叫びが発せられて居るのだ。
天下国家の歴史の流れから俯瞰して視れば、そもそもの眞の意味での造反をしでかしたのは誰で在り、恥べきイジメをして憚らないのは、其の潮流に棲息して居る烏合の頭目だと云う事も判る筈だ。
恥を知る文化を守るのは、イジメに奔走する徒共の某幹○長共ではなく、平沼先生の様な方ではないかと先生の端坐された御姿を思い出し乍呟いてみる。
別件だが、其の存在自体が反体制や反秩序のスタンスに居て成り立って居るマスコミを非難し乍、其の垂れ流す情報を鵜呑みにする愚を冒して憚らない方も居て驚愕した。 其共、毛唐のマスコミの垂れ流しだけは無批判に信じる毛唐崇拝者なのかも知れぬ。 情報収集の術は有っても、情報の識別能力はおろか、考える能(脳と迄は云わん)が伴わないのだから無理は在るまい。 だから、赤化許容の中○協○会を非難しながら、一方では○央○議○の権威に何とかしろと泣き付く愚にも気付けないのだろう。 「何を信じたいのか」のではなくて、「何を信じなければ為らないか」の問題で在る。 日の本の国に産まれ、日の本の国の言葉を話し、日の本の旅券を持ち、其が例え日の本の国会議員或いは国家公務員で在っても、日の本の国に不利益に為ったり、日の本の国の根幹を覆す如き事態や醜態に陥りそう為ったら、警鐘を鳴らし愚を糺すのが国民の為すべき責務で在ろう。 同じ様に、カトリックの要人で在り乍、カトリックの根幹を覆す動きに警鐘を鳴らし、誤を正すのがカトリック教徒に課せられた義務ではなかろうか。 国家にしろ教会にしろ、従属或いは帰属する者には、其を司る者に対して敬意と従順を求められるのは当然で在るが、此は盲従を強請される程の権利の侵害を意味するものでは無い。 特に教会には揺るぎない規範の基に揺るぎない権威が存在して居り、其は明確な規範の基の明確な権威なので、本来ならば国家の場合よりは問題が浮彫りに為れ易いし対処の仕方も明確なのだが、心地好いマヤカシが横行して居る昨今では問題がボカ為れ、対処の仕方も不明瞭に成って居るので在る。 問題を際立たせない為の心地好い幻覚を払拭し、幻想から一瞬たりとも早く覚醒せねば為るまい。 従順と盲従は同意義ではない分別位は在っても良さそうに思うが、無思考・無思慮・無熟考・無熟慮に飼い慣らされた者には、人としての自覚さえ無いだろうから無理かも知れない。
精神的隷属に在る者は、自らが奴隷で在る事に気付けないのは云う迄もない事で在る。 近現代の諸教皇が断罪し排斥し続けた誤謬の隷属に在る者は、自らが誤謬の奴隷で在る事に気付けないのも無理は無い。 誤謬への隷属者は、真理が何で在れ、誤謬を信じたい非の為に真理を排斥する愚を犯して憚らず、終には真理を誤謬で覆い隠してしまい、誤謬を真理だと宣告し盲従を強い、真理を求める者を貶め辱めだろう、誤謬の奴隷で在る自覚無き故に。
無駄な事だとは重々承知しては居るが、自称保守の方々には、近代主義の誤謬を洗い出して検証して診る事を勧める。 誤謬に固執する異端者と誤謬の検証に就いて協働するのは、例え異端者を利用して居るだけだとしとも、滑稽を通り越して愚劣過ぎて笑えない。
聖福音に記されたイエズス様が此の世に対して仰った言葉を今一度思い興せば、対話は対話でしか無いのだし、協調は協働でも共同でも無い事が解ろう。
異端や誤謬を忌み嫌うのと、異端や誤謬の迷いに陥って居る方への愛とは別物で在る事を銘記しておくが、此を混同して偏見を吹聴する者に対しては表現方法に些か問題が在るかも知れない。 |
2006年11月30日 23時53分23秒
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ノヴェナ開始 |
無原罪の御孕りに向けて開始です。 |
2006年11月29日 23時46分32秒
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只菅 |
聖下の御無事を祈祷する哉。 |
2006年11月28日 15時38分36秒
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