手による聖体拝領はどうして始まったか?


 第二バチカン公会議で典礼の刷新が唱えられた頃、フランスのある教会の司祭が独断で手に聖体を授けることをはじめ、それが次第に広まった。司教協議会議長はこれを重大視して、教皇庁典礼省に意見を求めたところ、1969年 6月 28日付で、典礼省長官ベンノ・ガット枢機卿と秘書アンニバレ・ブニーニ大司教の連署で

「司教がその慎重さと、良心に従って実行するならよろしい。」

との回答を得た。これは一時的で、一定の地区の司教に宛てられた書簡であって、司教協議会全体に与えられたものではない。

しかし、それが引き金になって他の教区長からも同じ請求がされ、典礼省ではやむを得ずそれをゆるしはじめた。


司教たちの意見

パウロ六世教皇はこれに反対だったので、ラテン教会の総ての司教にアンケートを求めた。すると、次ぎのような回答を得た。


(1)貴下は伝統的な方法のほかに、手による聖体授与の儀礼を許可して欲しいとの願望を聞き入れるべきだと考えますか?

賛成?

567


反対

1233


条件付きで

315


無効

20


(2)貴下はこの新しい方式が、幾つかの共同体に於いて、地域 司教の許可のもとに、実験されることを好ましいと思いますか??

賛成

751


反対

1215


無効

70

条件付で許可

しかし、教皇の意見は認められず、時代の趨勢という理由で、条件付で許可されることになった。

その条件は、

(1)従来の口に授ける方法を排除せず、押しつけてはならない。

(2)この儀式の導入には慎重な考慮が必要。従って、新しい方式の導入に当たっては段階を追って、まずよく準備できたグループから始めるがよい。秘跡に対するふさわしい尊敬を保つように配慮しなければならぬ。

(3)聖体におけるキリストの現存を弱まらせるような印象はどのように小さなことであっても、それを避けるように。更に汚聖に陥る危険やそのように見えることは総て排除しなければならぬ。

(4)この拝領が普通のパン或いは単に祝別されたパンと同様に見なされることがないように、反って聖体を手に受けることは、洗礼によってキリストの神秘体の一員になった尊厳を一層深く感じるように配慮しなければならぬ。具体的な方法として跪くこと。(日本ではたったまま深く頭を下げて最敬礼をする。)手をきれいにする。(教会の入口に手洗場を設けることなど。)以上の注意にもかかわらず、これらの条件が殆ど、実施されていないのが現状である。


躓きと汚聖

典礼省の懇切な注意も効なく、聖体拝領の新しい方式が導入されてから、聖体に対する尊敬が失われ、多くの躓きや汚聖が見られるようになった。

躓きとは、拝領の形式が軽視されると、人間の弱さから習慣になって緊張が薄れ、知らず知らずのうちに尊敬を欠くようになったことである。特に子供達においては、聖体を単なる聖別されたパンか、菓子のような気持ちで軽く受け取られるようになった。そうしたことから、彼らは聖体をポケットに入れて家に持ち帰ったり、友達と分け合って、他の食べ物と一緒に食べるような汚聖を悪気なく犯す。大人もそうである。幼児に聖体を与えるために、ハンドバックや祈り本の間にはさんで家に持ち帰った母親がいる。信者でない者が聖体を持ち帰るのは尚恐ろしい。彼らは聖体をどう扱うか知れない。ある者は意識的に踏みにじったりして侮辱するだろう。アメリカあたりでは汚聖のために聖体が一個五ドル或いは十ドルで売買されると聞いた。こうした汚聖を防ぐためには聖体拝領の場に監視人をおく必要がある。


聖体拝領は口で

(1)口による聖体拝領は初代教会から行われた。

教会のごく初期に於いては、改革派が主張するように、たしかに手による聖体拝領が行われていたに違いない。それは、人々の信仰が幼稚で、原始的で大まかであったからである。しかし、教義が発展し、信仰生活が深まるにつれ、神に奉仕する典礼や儀礼も進歩して、全能の神への礼拝にふさわしい形式が生まれたことは明らかである。従って、聖体拝領も、叙階式で司祭の手が荘厳に祝別されるようになったことを思うと、信徒が直接聖体に触れるのは恐れ多く、また彼らの手によって、聖体を運ぶことに汚聖が伴うことを考慮して、口で聖体を受けるようになったのは当然である。それ故、歴史を見ると、一世紀の終り頃から既に口による聖体拝領が行われていたことが認められている。

*聖ユスチニアヌス(100〜163年)の時代には、病者の為に聖体を運ぶのは助祭だけに限られていた。(P.G.6・429)

*聖シスト教皇(115〜125年)は法令で認められた聖職者だけが聖体に触れることができると布告した。(Liber point.I.L. Duchesne)

*エウスタキアヌス教皇(275〜283年)は、聖職者は誰でも、信徒又は女性が聖体を授与することは許されると前もって推定してはならないと警告している。(Antiquo Codice Vaticano. P.L.)?

*紀元372年頃、聖バジリウス(329〜379年)は、迫害時において、司祭や助祭が不在の時のみ、信徒が聖体を授けることをゆるした。(P.G.32)

*紀元404年、イノセント1世(401〜417年)は、シノドスに於いて、口の聖体拝領を義務づけた。(Mansi X.col.1205)?

*レオ1世教皇(440〜461年)は、典礼の改定に当たって、信徒が口で聖体を拝領するという条項を残した。(P.L.54)?

*聖グレゴリウス1世(590〜604)は、常に口による聖体授与を実行していた。(P.L.75.103)

*第6回コンスタンチノーブル公会議(680〜681年)では、信徒が自分の手で聖体を拝領することを禁じ、司祭や助祭をさしおいてそれを実行する者を破門するという声明を出した。(Mansi X 1.969)

*コルベオ2世国王のもとに、649年と653年の間に行われたルアンのシノドスでは、教父達は、司祭、助祭、副助祭が聖体授与に当たって、手ではなく、口に授けるべきことを命じ、これに違反する者は、神に対する尽くすべき尊敬を無視するかどで、聖務執行を停止する指令を出した。(Mansi X. col.1109〜1200)以上の実例により、878年ルアンの公会議で公式に決定される以前に、思いのほか古い時代から、口による聖体拝領が実施されていたことは確実である。(エンリコ・ツアツフオーリ著「キリストのまことの教会」参照)

私達はこうした公会議の決定を無視すべきではない。

(2)手による聖体拝領は教皇の裁決に先立って典礼省の役人が臨時に許可したことで、今日教会が認めているとは言え、教皇の真意ではなかった。パウロ六世教皇が全世界の司教からアンケートを取った結果でもわかる。ヨハネ・パウロ2世教皇もローマでは手による聖体拝領を最近まで許さなかった。

(3)手の聖体拝領を主張する人は、口で受けるのは人間の尊厳を傷つけるとか、そのような儀礼の習慣がないからふさわしくないと言うが、それは全く人間的な考えであって、神の御心を理解していない。キリストは神でありながら、神性や人性の尊厳を全く捨ててパンの姿にまでへりくだり、多くの侮辱や汚聖を知りながらも、罪人なる私達の聖化の為に来てくださる。貴方はその深い謙遜と愛を真剣に考えたことがありますか?。

もし貴方が一国の元首から園遊会にでも招かれたとしたらどうするか?。その光栄を感謝しながら、衣服を整え、儀礼を尽くして参加するではないだろうか!。聖体にまみえるのはそれ以上のことであることを忘れてはならない。

聖体に対する不敬や汚聖は何よりも大きな罪で、たった一度たりともゆるすべきではない。従って、これを防ぐためには安全で有効なあらゆる手段を講ずるべきである。口に受ける聖体拝領は、教会がこうした配慮から一千年以上も実施して来た伝統的儀礼であることを思うべきである。私達は、人間的な感情に囚われず、キリストを中心に考えて神の御旨を喜ばせる方法を以て、その愛に応えるべきではないだろか!。

カトリック東京大司教区

司祭 志村辰弥 師 著

「口による聖体拝領のすすめ」より転載

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