徒然なるままに日暮、パソコンに向いて・・・
聖母マリアの汚れ無き御心の祝日
 今日は聖母マリア様の汚れ無き御心の祝日だった。
 また、妻の受堅記念日でもある。
 祝日・記念日おめでとう!
 そして、いつもありがとうございます!
2008年08月22日 23時57分36秒
ノヴェナ開始
 心身共に疲れ果てて、最寄りの駅のホームに降り立つ。
 ホームに溢れる人混みの中で、不意にSpera in Deo!と云う言葉が心に浮かび、ロザリヲを爪繰りながら此の言葉を反芻しつつ家路を急ぐ。

 今日から聖母の汚れなき御心の祝日に向けたノヴェナを開始する。

 明日は我が霊名の祝日だ。
 保護聖人縁の地を最後に訪れたのは、もう十年も昔の事で在る。
 彼地の恩人友人にも十年お目にかかっていない訳だ。
 今度は何時行けるだろうか。
 あと何度、彼地にて額付く恵みを賜れるだろうか。

 我が恩人友人知人家族親族を、全善なる天主様が祝福して下さいますように!
2008年08月13日 23時28分08秒
ポルチゥンクラ
 昨日は「ポルチゥンクラ」の日だった。
 師父がこよなく愛されたポルチゥンクラ。
 再訪の恵を賜れますように!
2008年08月03日 12時15分46秒
しあわせ
 今日は妻と一緒に御彌撒聖祭に与れた。
 これも我が家の幸せで在る。
 この幸せの為に犠牲を厭わぬ妻には頭が下がる。
 妻よ、ありがとう。
 天主様に感謝し奉ります。
2008年07月20日 15時28分46秒
主を待ち望む
 何事も無ければ、あと半日位で御聖体に在すイエズス様を拝し奉れる。
 全宇宙を指一本で支えられる御方が、一被造物で在る司祭の言葉に従われて、小さい一片のホスチアにお留まりになられるのだ。
 此程迄の謙遜、否、卑下を為される愛に、忝なくて涙が零れそうになる。
2008年07月20日 01時05分43秒
健康診断を受ける
 昨日、地方自治体の健康診断を受けた。
 診断では、特に悪い箇所も無い(!)との診断だったので、後は血液検査の結果を待っている。

 今回の検診は、生まれて初めてと云う位に懇切丁寧な診察をして戴いた。
 誠実さと云うものが伝わって来る所作だった。

 世知辛い昨今の世の中に在って、この先生の様に心を亡くさないで生きたいと願う。
2008年07月19日 14時46分44秒
Chiara e Francesco
 妻が「Chiara e Francesco」のDVDを海外通販にて購ってくれた。
 本国モノなので日本語の字幕は勿論無いし、イタリア語も皆目判らないのだが、師父と師母の事なので、観ていてもそれほどの苦を感じる事は無かった。
 ツッコミ処が無い訳ではないが、僕は研究家でもオタクでもないし、映像化された作り手の師父像・師母像に云々する批評家に堕した心算は無いから愚は控える。
 だが恩師が存命だったら、どう評されただろうかが気にはなる。

 妻よ、ありがとう。
2008年06月26日 02時11分17秒
マイ・ブーム
 Chiara e Francesco

 Ettore Bassi: umiltà, carisma e talento 1
 http://jp.youtube.com/watch?v=Xmgrxj-ps3U
2008年05月17日 01時17分15秒
佳日
昨日は彼方の教友を訪ねる賜を得、今日は遠方の師、及び師父の娘達より書簡が届いた。
感謝あるのみ。
2008年05月12日 21時56分26秒
今日の佳き日に
 昨年のイタリア旅行中に御世話に為った修道院では、今日、修練期を無事終えた一人のノビスが初誓願宣立の恵みを賜る予定で在る。
 僕達への贈歌の為に指揮を執って下さった新修女様の為に祈ろう。
 善き勧めを賜う聖母よ、彼女の為に祈り給え。
2008年04月26日 20時35分21秒
感謝
 睦月が過ぎ去ろうとして居る。
 月の始めには婚姻一周年を迎える事が出来た。
 先日は婚姻を司式して下さった霊父様に我が家へ御足労願い、家庭の祝福等を為て頂くと共に、婚姻一周年を祝って頂いた。
 聖傳家族並びに、師父に於ける兄弟姉妹の御祈祷りに感謝する。
 全善なる天主様に栄光在らん事を。
2008年01月31日 23時23分10秒
Te,Deum laudamus!
感謝!
2007年12月31日 22時33分26秒
待降節
 早いもので、典礼暦では紫の季節になった。
 月日が経つのは本当に早いものである。
 無原罪聖母の大祝日も、もう少しで迎えられる。
 今日を生きられる恵みに対し、本当に善い御者に在します天主様に感謝しよう。
2007年12月06日 04時31分53秒
古本屋
 先日、馴染みの古書店へ久しぶりに行った。
 正しく足の踏み場も無い程の店内で、書籍に埋もれそうに成りながら社長殿が一人で切り盛りして居られる姿を拝し、勝手に安心させて貰った。
 書棚に並んだ書籍もさることながら、積み上げられた未整理の書籍に自然と興味が湧いてしまうのだが、残念な事に如何せん時間が無いので一瞥しただけだった。
 未整理本の中から食指が動きそうな書籍を見い出す楽しみと、値段交渉の駆け引きが味わえるのも店舗の醍醐味だと思う。
 インターネットでの注文は便利ではあるが、矢張り対面に於ける面白味に欠けるし、古書籍の香りを嗅ぎつつ探索する楽しみも欠ける気がする。
 今度じっくりと訪れてみる心算である。
2007年12月05日 04時24分58秒
家路
今日も勤務を終え家路に就く。
玄関を開ける時の安堵感を期待しつつ、予感しつつ、家路を急ぐ途中で日記を認める。
エスカレーターを駆け降りて、発車間際の電車に滑り込む。
やっと最寄りの駅に着いたけれど、雨が降って居る。
でも、もう一踏ん張りだ。

今日一日賜った御恩恵に対し、天主様に感謝し奉る!
2007年11月11日 21時10分05秒
手作りの暖かさ
教友の一人から傘を頂いた。
おそらく、当分の間は飾って過ごすかも知れない程までに素晴らしい手造りの傘で在る。
御ミサや教会専用にしようかと謀ったが、教会とは謂え共色々と不穏な風情で在るこの頃故、二の足を踏んで居る次第で在る。
そんな自分がおかしくも情無くも思えるのが面白い。
此の傘が似合う大人に成長出来る様に努力しよう。

師母の姉妹からも手作りのカードを頂いた。
何時も乍、暖かいカードで在る。
早速、代祷を乞う文面を考えつつ、姉妹達の親交相手に相応しく為れる様に努よう。

さて、もう一踏ん張り頑張ろう。
大ヤコボとマテオに祈祷りつつ。
2007年09月12日 04時24分17秒
暁に祈る
 「暁に祈る」と云っても、伊藤久男(だったっけ?)が歌ったそれではなく、暁の時分に天主へ祈る自分の事を指す。

 其の折りに、後、何れ位、自分の救霊の為の時間が残って居るのだろうか?と自問する。
 此の僅かに遺された時間の余りの少なさが、自己を鼓舞為るのに丁度良い。


 真に小さき兄弟として生涯を全うした恩師に助けを乞う。
 恩師が帰天してから一年後に、新たな小さき兄弟と巡り逢えたのも御摂理だろう。

 敬愛なる師母の娘達から手紙が届いた。
 手紙を未だ読んでないが、愛する姉妹達に今月の給料から些少乍も贈りたく思って居る。

 同時に、聖ドミニコの兄弟からも手紙が来てた。
 此も読むのが楽しみだ。


 僕は己の罪深さに反比例して、善き恩師、師匠、巨匠、霊父の方々、兄弟姉妹の方々、そして教友の方々に恵まれて居ると思う。
 暁に祈祷り乍、賜りたる恩恵に感謝する。


 もう一踏ん張り頑張れば、妻の顔が視れる。
 頑張ろう!


 天主様に感謝し奉る!
2007年09月11日 04時09分17秒
防犯と防災
 「防犯」と「防災」は両立し得ない気がする。
 どちらか片方のレベルを高めれば、もう一方のレベルが低く為らざるを得ない気がする。
 侵入者を防ぐ防備を固めれば避難し難く成り、避難し易い設定に為れば侵入し易く成る気がする。
 所詮は素人の戯言かも知れぬが、そんな事を思った次第で在る。
2007年09月09日 23時16分02秒
感謝
 教友の方々が為された御祈祷りに対し、心より感謝申し上げます。

 
2007年09月04日 11時33分23秒
 
Ubi est misericordia et discretio, ibi nec superfluitas nec induratio.
2007年08月11日 17時01分49秒
妻へ
ありがとう。
2007年08月10日 23時54分35秒
感謝
 未だ御会いした事の無い教友から、彼の地の名産を頂いた。
 僕の様な者への御厚意に対し、心より御礼申し上げる。
 早速調理して頂いたのだが、御世辞抜きで実に美味しいのである。
 この料理を口にしたのは、まだ産まれて二度目でしかないのだ。
 今から三度目を楽しみにしており、その時にはレシピには無いのだが、「冷」で食する事に挑戦してみる心算である。
 本当に好いものを頂けた。
 未だ視ぬ教友に、心からの感謝を重ねて申上げる次第である。
 拙き祈祷りと共に。
2007年08月09日 23時12分15秒
 
 一部百五十八円もする機関紙の最新号の第六面には、第四公会議(カルケドン会議)によって否定された、「キリストには一性しかなく、その人性は神性に吸収されて人間の肉体はない」とする、キリスト単性説を継承している異端に、教区事務所を貸しているという記事が載っている。
 ものの本によると、この異端とローマ公教会との間には、キリスト論、終末論、教皇の裁治権・教導権上の首位に関する点に相違があるそうだ。
 勿論、教理上の誤謬を一掃した帰一カトリックもあり、レオ十三世によりアレキサンドリア総大司教を再立されたのだが、某教区事務所が貸しているのは異端の方である。

 また、1面のトップは、叡山での宗教サミット二十週年記念の記事がデカデカと載っている。
 普通ならば、大分教区初代司教様の訃報が1面のトップを飾っても良さそうな気もするが、その辺りに執行部の意向が露に為れている気がする。
 この二十年間で、宗教・民族・文化の相違による対立が激化しているのだが、これが「ともに祈(る)」った結果なのだろうか。

 それから、1面の片隅には「憲法九条〜云々」という宣伝が載っているのだが、確りと掲載料を徴収しているのだろうか?
 まさか、ズブズブの関係で掲載料無料奉仕というバカな話では無いとは思うが、本当の処はどうなのか知らぬが、もしかしたら当事者達も「解らない」と言い出すのかも知れぬ。


 あれから二十年が経ったのかと思うと、感慨深くなる。
 チョビ髭を生やした理事を怒らせて、停学を喰らった夏から二十年が経ったのか。
 本当にアッという間だった。
 次の二十年が楽しみになってきた。
 今までと同じく、一日一日を精一杯活きよう。
2007年08月09日 17時11分43秒
師父聖ドミニコの祝日
 今日は師父聖ドミニコの祝日である。
 何とか聖ドミニコの兄弟達に挨拶メイルを送れたが、果たして内容を理解して下さったか否かが心配でもある。


 来る師母の祝日の祝詞を、師母の娘達である姉妹達の所へ送った。
 修道院にはインターネットはおろか電話も無く、自分達の生活の為には電気を一切用いぬ姉妹達への通信手段は手紙しかないのだ。
却って、それが好く、それで佳いのだ。
 天主に感謝し奉る。
2007年08月04日 22時11分24秒
何と言うか
 道端にポイ棄てされたガムを踏んでしまったようなものだ。 しかも時は夏場で、しかもブツはチューインガムである。

 んで、今僕は「攻撃」されているらしい。
 そうか、僕は今迄攻撃を受けていたのか!知らなかった!
 僕が知らなかったとは言え、彼方には僕を攻撃するという意志と、僕を攻撃しているという明確な認識が有った訳だ。
 彼方の意図を、わざわざ立証する手間隙が省けて大いに助かった。
 また、手打ちの折りの言葉も本心からでない、謂わば偽りの言葉だったと言う事も、彼方様が御自ら明らかにして下さった。
 所詮はその場凌ぎの方便に過ぎないのだから、手打ちを平然と反故に出来る訳だ。
 真に受けて信じた僕が迂濶だった。
 今回も謝りながら攻撃するという離れ業を遣ってのけて居る処を視ると、詫びの表明は方便かも知れぬな。
 何れにせよ、彼方様の意図を立証する手間隙が省けて大いに助かった。
2007年08月04日 07時33分20秒
敢えて無題
 このスペースは「日記・雑記・落書帖」である。
 WEB上にて公開してはいるが、「日記・雑記・落書帖」である。
 「日記・雑記・落書帖」なので、僕本人に書き込み内容が解れば事足りるのである。
 WEB上にて公開してはいるとはいえ、他人の眼を気にして、つまり不特定の読者を前提として「日記・雑記・落書帖」を書き込んでいる訳では無かったのだが、掲示板の方で絡んでこられる御方の登場で、そうも往かなくなりそうである。
 他の掲示板のゴタゴタを他の板に転じて騒ぐ、常識外れの不届き行為が行われ領る事は知ってはいたが、まさか他人の日記にケチを付ける人間が此の世に居るとは思わなかったのである。
 第一、「日記・雑記・落書帖」への書き込みに対する他者のコメントが欲しければ、最初からブログ等を開設するものであり、他人の心理状態を所見する能力があれば、それ位判って然るべきではないであろうか?

 さて、この掲示板で絡んでこられる方で在るが、御自ら
 『>「理由になっていない」と言われるかも知れない』
と言う理由で、他所のゴタゴタを他の掲示板に書き込み騒ぐ事の出来る御方であるが、アホらしさと「しつこさ」に付き合いきれず、此方が折れて一旦は手打ちになったのだが、次にメールを寄越して話を蒸し返して手打ち話を反古にしたのである。
 そんな事が在り、僕の中では、この御方の言動には信用が置けず、またこの御方とのあらゆる関係に対して匙を投げる事にしたのだが、あちらの方ではそうでも無いらしく、また絡まれて来られた。
 「しつこい」を通り越して「ねちっこい」性質である。
 しかも此度は僕に対し、「意思疎通能力に劣り、心理的に病んで居る」と云う趣旨の書き込みをされる始末である。
 僕にとっては、どうでも良い話、全く気にも留められない話だ。
 勿論、その様な所見を下し、さらに所見結果を公然の下に晒す事が出来るのだから、この御方はそれなりの資格を持ったプロなのだろうが、何等の診察も無しに所見を下せるのもプロのなせる業なのだろうか。
 但し、最近メンタルクリニックへ精神状態を診断して貰いに行ったのが、診察結果は極めて正常で健康な精神状態だと診断されたのだから、この医師の診断は誤りだという異議、若しくは疑義を唱える事になる。
 何かの序を作って、このクリニックへ行き、医師の診断に「公然と疑義を唱える者」の存在を告げると共に、僕を対し「意思疎通能力に劣り、心理的に病んで居る」と云う趣旨の所見を下し、それを公然の下に晒した御方が、果たして所見を下すに相応しい有資格者で在るか否かを調べてもらう事にする。
 鼻風邪や些少な擦り傷程度の話を吹聴された程度の話ではないのだから、其れ相応の対処をせねば成るまい。

 それから、只管「会」に言及するのは何故なのだろうか?
 先にゴタゴタを引掻き回した掲示板では
『> 聖ピオ十世会と自分を同一化すべきではない。「私 = 聖ピオ十世会」ではない。』
 と曰ったのだが、「会」に固執するところを視ると、仰った御本人が「会」と会に集う「個人」を同一視し、「会」と会に集う「個人」の違いを混同し続けているのではないか。
 また、自らの理想を他の、しかも明確に指定した個人に強要する態度も、「他人」と「個人」を同一視し、その違いを混同して錯覚を起こしているのではないだろうか。
 でなければ、これ程までに異常な偏執を見せる同義が見出せないのだ。
 だが、そんな事はどうでも良い。

 それから、霊的進歩と人格的進歩は人其々で千差万別の歩み方が在る。
 少なくともPCを目的として居る御方に、とやかく言われる筋合いは無い。

 最後に、僕に就いて吼えるならば、他所で何時までも「ねちっこく」吼えて欲しい。
 僕にはWEB上での下らない遊びに付き合う暇は無いし、公表した手打ちを陰で平然と反古にするような方とは、これ以上係わり合いたく無い。

 僕には守らねばならぬ家庭が在り、共に天国を目指す伴侶が居るのだ。
2007年08月02日 23時30分25秒
素直な翻訳を阻害させる原理
 一部百五十八円もする機関紙には、文化的受肉原理を基軸にした翻訳の困難さとやらを掲載していた。
 母国語も満足に駆使出来ぬ僕には、翻訳に携わる他の方々が背負う苦労等は想像すら出来ない。
 だが、この文面を読むと、「原文を忠実に翻訳する過程に於て生じる言語的な障害を克服して「日本語に訳す」よりも、公会議精神厳従の原理に従い、文化的言語的相違を口実に「日本語化」しました」と言っているようなモノである。
 引き合いに出されている、GLORIAのTU SOLUSをどの様に日本語化されたのかが記されていないのが残念だが、今年で少なくとも四十二年目を迎える「主の〜」がどんな現代的進化を遂げた「日本語」に変化したのかが気になる。
 翻訳素人ながら僕ならば「TU SOLUS SANCTUS」をリズム感も考慮して「御身のみ聖なり」と率直に訳すのだが、公会議原理主義のバイアスが荷った日本語を見てみたい。
2007年08月01日 23時31分15秒
過ぎし文月
 先日の事だが、明確な意志を伴った文字と、威圧的な力を撥ね除ける些細な理由をも見据える事さえ諦めさせる様な思考に因って、嘗てない程の乱暴的な内的侵略を受け、耐え難い胸苦しさを被ったが、これ等は将に災難に遭った様なものだ。
 内的な痕跡を顧み、幾ら「広い心で」等と言うような客観性を装っていても、倫理的に中立なもの等は無いのであり、そんなものは甘言に過ぎないマヤカシである事を思い知らされた。
 某会士の匿名ドキュメンタリーを事前に再読していた偶然が無ければ、本当に危ういところだったろう。


 さあ、師母や保護の聖人達の月がやってくる。
 それだけで嬉しい。


 後は、聖母の為の橋渡が上手く済む事を欲す。
2007年07月31日 23時47分40秒
野辺送り
 面識が無きに等しい方を天主様の御側へ送った。
 此で何度目の公教葬儀だろう。
 式の開始時間を間違えてかなり早く葬儀場所に着いた。
 お陰でロザリオ一本を捧げる事が出来た。
 苦しみの玄義の折りには、聖主と御母の受け給いたる御苦しみ御悲しみが、病床に於ける故人と配偶者の受けられた御苦しみと御悲しみとオーバーラップしてかなり堪えたが、喪主の方の御悲しみには程遠い。
 喪主の方の淡々とし過ぎた御振る舞いが、却って其の御悲しみの深さを物語っていた気がする。
 大先輩で在る彼と彼女の為に祈祷ろう。


 昨日あたりから蝉が鳴き始めた。
 蝉の鳴き声は、痛い陽射しと苦しい湿気を一段と強く感じさせる気がするので余り好きではないが、人間の造る騒音よりは遥かにマシだ。
 メッセージ性の無い選挙ポスターや主張が聴けない選挙カー等は、蝉の鳴き声にも劣る全くの○○○○で在る○○○○で在る気がする。
2007年07月25日 23時13分03秒
Requiem
御会いできたのは五指に余る方だったが、逝きし霊魂の安息を祈祷る為に会った回数等は当然ながら不問だ。
だが、今朝の御ミサに仕えた折りに、遺されたる霊魂の為にも祈祷る必要性を痛感した。
信仰が在っても別れは辛い。
連れ添った年月、育んだ年月等が長ければ長い程、辛さは増すと思う。
永遠の生命を信じて居ても、別れは辛い。
遺されたる霊魂の悲しみを考えても辛い。
その喪失感たるや、考えただけでも辛い。
2007年07月23日 22時16分23秒
Extra Ordinarium
 今日は(もう昨日か)、懐かしい顔が続々現われた。
 特に教友の御夫婦の間に、新しい命が賜れてゐて素直に嬉しい。
 天主の許に旅立たれた霊魂の代わりに、天主様が送られて下さった気がする。
 他の教友のジュニアには「十字架のしるし」の宿題を出した。
 来月が楽しみだ。
2007年07月23日 00時32分13秒
違うんでね〜の?
 「風が吹いてる」だとか「流れている」だとか、そういう俗まみれ的なもの言いは「?」だな。
 天主に属する事柄は流行で変化するのかい?
 真理は多数決で決める事柄かい?
 チッと祈祷り考えてみてね。
2007年07月21日 23時31分37秒
 
 以前、WEBを漂流しておった時、「旧典礼に固執するグループ(聖ピオ十世会など)とは全く関係ない云々」と態々断りを表記しておるサイトに漂着した事が在る。

 御大層な但し書きに羞じないサイトだろうと思い期待を以って拝見させて頂いたが、薀蓄を述べるのに態々「旧典礼」を持ち出して居られるのが不思議だった。

 普通は自らが肯定する新典礼の枠内で薀蓄を述べるだろう?何で暗に否定して憚らない「旧典礼」に固執するんだろう?

 御仁御自らが「旧典礼」に執拗に「固執」するものだから、自らと何の関係も無い聖ピオ十世会もそう見えたに過ぎないのだろう。

 敢えて聖ピオ十世会が固執したモノを挙げるならば、其れは「典礼」では無く、「カトリック」で在る。

 カトリック教会に昔から存在する「カトリック信仰」を「護持」し続けので在る。



 「トレントミサは過去のものだから研究でなければ関れない」とか、「旧典礼の典礼暦は信仰生活に適用するな」とか何とか奸とか曰うならば、始めから紹介しなければ良いので在るし、其れこそ、普通は、当たり前に、関わり合わないものだ。

 第二バチカン公会議以降の典礼に依る信仰生活を立派に送って居られるのは御自由で在るが、まるで骨董商か古美術商か何かの如くに「カトリックに昔から存在するものしか取り扱っていません。」等と謂う物言いが云える神経が、素直に不思議で在る。

 が、然し、カトリック教会内に於いて昔から存在して居ない第二バチカン公会議以降の典礼による信仰生活を現に送って居る方が、骨董趣味乃至懐古趣味で「旧来」を「取り扱って」のならば頷頚出来ぬが理解は出来る。

 四の五の吐かしても、信仰と云う名を隠れ蓑にしただけの、只の趣味の披露をしたいだけなのだろう。



 それから、御仁が「昨日の暦と典礼」と揶揄した其のものを、現教皇様が私的ながらも用い捧げられて居るそうだ。

 此の現実に対しても未だ「研究」だの何だのと、同じ御託を述べ続けるのだろうか?



 最後に、あっちコッチのサイトと明らかに同じ誤植が散見されるのだが、何故だろう?

 んで、虚栄のあまり無理してラテン語を使うものだから、言語が混沌として居たりもする。


 さあ、晩飯の仕度に掛かろう!
 今晩は、鯖の味醂干しの焼き魚と、野菜炒めだな。
2007年07月18日 19時36分00秒
何と云うか……
 二十年程前のゴミ同然の流言を拠にした妄想が、某所で吹聴されて居るのを観た。

 二十年前の亡霊と云うか、まるで化け物が現れた様なものだ。

 取り敢えずHNと併せて、化け猫とでも仮称して置く。

 んで、化け猫に因み鍋島騒動として置こう。

 そもそもの根幹から近代主義が混もった不純物で在る上に、教会のマジステリウムが多いに揺らいだモンだから、不具合やらブレやら何やらを修正するのに色々アップ・デートせねば成らぬのだが、二十年前の流言を未だに繰り返すしか能が無いのを看ると、学習機能もバージョン・アップも能わぬ物なのだろう。

 あんどんの油を舐めるが如く、異端をピチョピチョ舐めて吸収するのは勝手だが、害悪を垂れ流したり巻き散らしたりする自由は無いのだし、其を憚らずに行使するのは旗迷惑なのだが、化け猫と云う物に問うても判るまい。

 不憫では在るが、化け猫とは申せ、物は物でしか無いのだから哀れむのは全くの無駄だし、カトリック教会は化け物の供養なんぞしない。

 バ○はバ○がバ○で在る事に気付け故にバ○なのだから、バ○に着ける薬は本当に無いのだ。
2007年07月18日 14時14分35秒
Inverecundus monstrum anus feles
結拠は其れ其のモノなので在る。
全ての視点を其処に置いて視なければ、総ての観点を其所に据えて考えなければ、公教会的信仰には為るまい。
其に至らずに己が心の念に驕れる虚構に基づいた弁を虚言と云う奴の本質はInnocentium Persecatorなので在る。
だから、無駄でしかない。

故にこう問うて診て、化けの皮を剥いで遣るべきだ。
Sed quid traculente reniteris?
Quid temerarie detrectas?


IMITATIONE DE VITAE SCIENSも災難だな。
2007年07月14日 17時55分59秒
雨だ台風だ。
日本国憲法を崇拝するあまり、『日本国』を守るよりも日本国憲法を守る事に御執心の愚。

何も『日本国憲法』だけで無く、此の単語を『自政党』とか『利権』とか『××』に置き換えて見れば、此の国の今時の選挙なんてモンは、本来為らば据えるべき『国』に根幹を据えずに右往左往左顧右弁するだけの政治的茶番で在り、退廃的危機に在る我が国を象徴的に現して居る気がする。


同様の危機は我が公教会も直面して居るのだが、位階的に弩偉い人を始め単に偉ぶりたい者迄、モノの見事に直視しない、直視出来ない体たらくで在る、真に愚の骨頂だ。


殆んどの選挙カーは「自政党の利権を守らせて下さい」と訴えて居る様に聴こえるが、此等に共通して居るのは「日本国を守護ります」と云う弁が聴かれぬ事だ。
今に始まった事ではないが、何の国政選挙なのか解らぬ。
2007年07月14日 16時57分21秒
頑迷的政教分離至上原理主義狂信者へ
選挙が始まったが、日本中に政教合致と云うか政教がズブズブの間柄に在る団体へは抗議をしないのかな?
多重基準も大概にせよ。
2007年07月12日 21時24分02秒
MP掲載為れる!
 GRATIAS JESU ET MARIAE!

 一部百五十八円もする某機関紙の1面トップに、今七日に発令為れたMPが掲載為れて居やがる!
 言語能力ゼロの我が脳が誤解読した以上の好条件で在る様だ。
 総長様がTE DEUMを頌う事を依頼為れただけの事は在る。
 TE DEUMはROMANUMで頌いたいが、多分荘厳調でも無理だろう。

 VIVA! PAPA!
 VIVA! PAPA! BENEDETTO!

 始まりの始まりが始まった!だが、気を引き締めて色々と励もう!

 ルフェーブル大司教様!
2007年07月12日 13時14分59秒
噂のMPはEDの襲用か?
 噂は噂に過ぎなかったのだろうか。

 言語感覚に劣る僕が噂のMPをザッと眺めただけの感触だが、会衆の参加せぬ読唱ミサ、つまり司祭単独での私唱ミサを捧げる場合には1962年版の典礼規範に基づくミサを、聖週間に於ける暗黒の三日間を除き教区長や司教や上長の許可なく捧げる事が出来る。

 又、修道会等に属する司祭が恒常的に1962年版の典礼規範に基づくミサを捧げる場合には、上長に申し出て指導を仰ぐ事が望まれる。

 しかし、一定数以上の員数を要する何等かの信徒の集まりが1962年の典礼規範に基づくミサを望むならば、教区長や司教は此の望を受け入れ配慮を以って指導すべき等と何となく解した。

 一平信徒が1962年の典礼規範に基づくミサに与かりたいと望んでも、(1)信徒数が一定以上の員数で在り、(2)小教区長が彼等の望みを受け入れ、(3)教区長の配慮在る指導(要は許可)を要するのだから、無学無能無才の僕にはEDと大して違わぬ気がするが、1962年版の典礼規範に基づくミサは廃止されて居ない確認を宣告した事は特記に値すると思う。

 何しろ、ラテン語ミサに嫌悪を露にされた某緋衣御大は30年位に「(彼の伝統的)ミサは廃止された故に、今では禁止されて居る」旨を御著書の中で認められ、当時から堅持為れて居られた誤謬を撒き散らされたのだから、此で誤謬に固執為さる事は無いだろうと無理に思い込んで見る。

 今回のMPに依って、伝統的なラテン語ミサ、いわゆるトリエント・ミサが廃止されて居ない事実が再確認された事は、大きい意義を持つのではないだろうか。

 嘗てトリエント・ミサをルフェーブル大司教と其の追従者達の「専有物」に仕立て上げて彼等を追い込んだ当局が、今は言を翻し、「トリエント・ミサはルフェーブル大司教と其の追従者達の専有物では無い」と取り戻しに掛ったのだ。

 だが、しかし、午前中にトリエント・ミサを捧げた司祭が、司牧的配慮と云う偽善の名に依り同日の午後同所にて新ミサの規範にすら逸脱して居るパーティ・ミサを捧げさせられたりする可能性が在るのではないだろうか?

 トリエント・ミサを捧げる代わりに、ロックやフォーク・ミサの司式をヌイグルミ着用の上で命ぜられたり、トリエント・ミサに与かる代わりに、乱チキ騒ぎのミサに於て聖体奉仕者を強要される可能性と云うか危険性も在り得るではないだろうか?


 テネブレを除外したのは、ユダヤ教や離教会、異端教会等への配慮かも知れない。
 特にユダヤ教への遠慮かも知れない。



 (追記)
 何のかんの云っても、一応は、私唱ミサのみでは在るがラテン典礼の司祭にはトリエント・ミサを自由に捧げ得れる御墨付きが曲がり成りにも得られた訳だ。
 妙な功名心や名誉欲からでは無く、御自身に課せられた司祭職と云う召命に忠実で在りたい、御自身を司祭職に召し出された天主様への完ったき犠牲と礼拝を捧げたいと希求し、トリエント・ミサを捧げ始める司祭が居れば良いのだが、それではトリエント・ミサを自由に捧げ得れる御墨付の前提と為る原理にも反するし、気骨在る司祭は絶滅に瀕して居る日本の現状を鑑れば、際立ったMP効果が在るとは思えない。

 天主に由来し聖使徒等に迄遡れる聖伝承を基と為す規範に基づいた磐石たる教会と云う良貨が、NOVUS ORDOと云うミサが教会にもたらした文字通りの新秩序と云う悪貨に依って駆逐されてしまったのだが、此を指摘しては為らぬと云うのがトリエント・ミサを自由に捧げ得れる御墨付の前提と為る原理で在る、と言語的感覚の無い僕は受け取った。

 だが、善は伝播すると云う格言を思い起こし、天主に希望をおこう。

 既に新秩序がもたらした破綻が、新規律が産出した荒廃がアチコチに散見されるのだが、破綻や荒廃の原因は新秩序や新規律に非ず、と云う詭弁を未だに翻し続ける「自称保守」さんは、尻に火が着いても尚、対岸の火事の如くにしか捉えられないのだから不思議を通り越して不可解ですら在り、憚らずに謂えば、理性の欠片も無い自虐的・自傷的な変態的性癖に毒為れて居るのではないかとさえ思える。

 教会の教導規範が如何に大切で在るかが身に凍みて解る今日此頃で在る。


 聖職者や信徒の信仰的な乱れは、各々の個人に端を発したのでは無くて、規範や規律の乱れが端を発しさせた根源なのだ。

 国際的社会主義信奉者が教会内を大手を振って濶歩し、其の誤謬を撒き散らして居るのは何も日本だけでは無い事をお忘れなく。
 序に、ミサ聖祭中の説教に於て、説教者が聴衆たる会衆に対し返答を求めたり、聴衆たる会衆が説教者に対して応答する如き対話は、ミサの総則に於いて禁止為れて居ると記憶して居る。
 戦い方を間違える愚は避けるべきた。
 ミサを私物化する聖職者の挑発に乗って、同じ土俵に上がっても、共に典礼規範違犯と云う同じ過
2007年07月08日 16時13分34秒
 
 天主様への全き愛と全き信頼を以て享受為れば、剄木の辛苦が真の甘美に為る秘訣を、主の聖人達は心得、体得する術を知って居たのではないだろうか。 イエズス様の剄木と受難を仰ぎ、そう思った。
2007年07月06日 23時52分53秒
一部百五十八円もする某機関紙には
……バチカンは中国との国交樹立が出来次第、教皇庁大使館を台湾から北京に移す意思が在る事を改めて確認した……云々。

 此は教皇様が支那のカトリック信徒に宛てた手紙に就いて教皇庁広報局が発表した解説文中に在る文旨の一部らしい。

 香港の枢機卿曰く、「……教皇様の手紙は純粋に宗教的なもので、全く政治的意図が無く(い)……」らしいが、此の解説文を発表したクリアには政治的意図が在り有りで在るし、「台湾は支那中共に属する」と云う中共の馬鹿げた虚構(嘘・でっち上げ)を支持する事になり、真理の擁護者たるカトリック教会が「偽り」を認める愚を冒す事になるのではないだろうか。

 仮に、バチカンと支那との国交樹立が中共崩壊後の支那の新政府との間に樹立されるものだとしても、新たに駐支那公使なり大使を派遣すれば佳い話で在り、何故わざわざ駐台湾大使館を引き揚げて北京へ移すのか理解出来ない。

 もしかしたら、中共政府による迫害に遭い、先に中華民國政府が支那大陸から台湾へ逃げた事に倣って、台湾に暫定的に大使館の機能を移したのかも知れないが、もしもそうだとしたならば、台湾から支那へ大使館を戻すのは当然で在るが、それと同時に、既に大使館として有効且つ有用に機能して居る台湾へ新たに駐台湾大使館を設置し新規に大使を当然の如く派遣すべきではないで在ろうか。

 教皇様の支那の民へ宛てた手紙を解読した訳でもなく、教皇庁広報局の解説を検証した訳でも無いが、我が邦に於けるカトリック機関紙の1面記事を眺めて思った次第で在る。

 因に僕は、
 台湾万歳!
 台湾!YES!
 支那中共 NO!
 の立場にも在る事を蛇足乍記しておく。


 香港の枢機卿の言の「教皇様の手紙は純粋に宗教的なもので、全く政治的意図がなく」の後には、【誰かを攻撃する性質も在りません】と云う言葉が合ったが、此れも第二バチカン公会議の一原理でも在る。

 謬説を真理の如くに偽装して垂れながしても、偽りの「一致」の名の下に、偏った「博愛」の名の下に排斥為れないのだ。

 異端や誤謬を断罪せず、寧ろ連帯し共存して居る態で在り、此は日本だけでは無く世界中に慢延して居るそうだ。


 何れにせよ、ファチマの聖母の御望を一秒でも速く為すべきで在る事は間違い在るまい。


 それにしても今回の対応は速かった、明後日に予定為れて居るとされる教令も同様に出来る筈だから、来週の1面が楽しみだし、掲載無き場合には弩偉方の黒い腹の中と云うか存念と云うか体質が、拠り一層明らかに為れるのも楽しみだ。


 明日は愛するマリェッタの祝日だ。
 聖女よ、我等の為に祈祷り給え!我が為に特祈祷り給え!
2007年07月05日 20時40分17秒
アイン・カリム
 今日は聖母の御訪問の祝日で在った。

 此の時蹟は聖ルカによる聖福音書にも記されて居る。

 ロザリオの喜びの玄義に於ける第二玄義の其れでも在り馴染み深い気がする。



 さて、パパ様が七月七日の七夕に発布されるとされて居る教皇自発教令に就いて、識者共が言いたい放題で在る。↓

http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/cmt/4d309d90a56cbdfae7cdcfe0cfa3f908

 中には、教会への不満をぶちまけて居る識者擬も居たりするのだが、此なんぞは場違いも甚だしいのではないだろうか。

 抑、聖ピオ十世会の支持者の多くは、新ミサを受け入れられない事由や新奇神学に汚染されて救霊手段がおぼつかない等の理由が在る故に、我が邦では月に一度では在るが、確りとした救霊手段(含救霊概念)、確りとトリエント・ミサを捧げて居る聖ピオ十世会の基へ往くのではないだろうか?

 が、識者擬は、聖ピオ十世会支持者が端から受け入れられない新ミサの翻訳がどうのこうの等と云う、御自身の堅持される単なる嗜好に合致するか否かの問題をダラダラと述べるだけの、井戸端会議的態で在る。

 公教会用語の変更による神学的概念の改変の危惧と、神学的に問題が在る新ミサの翻訳の問題は似て非なるものだと思うが、此の単純な違いが解らぬ程に破綻した論理が混同し居るかの様だ。

 第一、聖ピオ十世会の多くの支持者は識者擬の如き「不満分子」では無いのだが、虚実が倒錯して居るので解らぬ様だ。

 御不満をぶちまけ鬱憤を晴らすのは他処が相応しかろう。

 少なくとも僕は、天主公教会が人民教会に成り果て、天主の犠牲が人民の会食に成り下がり、天主公教会から人民教会への革命的移行の際に多くの信仰的遺産投棄乃至廃棄された惨々たる現況から、信仰の為、救霊の為に聖ピオ十世会へ避難したので在る。

 人民教会を天主公教会へ戻す為に人民教会に止まり、人民的会食と奇異な教説、信仰的系統断絶状態に身も霊魂も委ねる事に耐えられ無くなって避難したのだ、「朱に交われば紅く成る」と云うではないか。

 実質的に人民教会で在るものを人民教会に非ずと宣い、且つ実際的な人民的会食を天主の犠牲成りと宣える立場の方が、下らない雑言を巻き散らしに同好者の処では無く、座標軸が異なる処に態々御出に成る気概が判らぬ。

 所詮は「カトリック・オタク」の虚言で在る、真に馬鹿バカしい。


 パパ様が七月七日の七夕に教皇自発教令を発布されるからと云っても、年に一回の七夕的御大荘人民会食行為嗜好者集会には関係ないだろう。

 年に一回の七夕的御大荘人民会食行為嗜好者集会を催す為に、暗にトリエント・ミサを否認した族輩共だから、今更頷頭出来まいし、教皇様の許しの名の下にトリエント・ミサ挙行を画策し出すのならば、1984年のインダルトや1988年のエクレジア・デイも教皇の許しの基に挙行を画策出来た筈で在るから、単なる日和見主義者に過ぎず、しかも、ルフェーブル大司教様や聖ピオ十世会が信仰的且つ神学的見地により護持して伝え来たモノを、単なる嗜好の選択に堕める事に等しい。

 万が一、トリエント・ミサ挙行を画策したとしたら「信仰上の理由の為、教皇様から離れる様な行為は出来なかった」旨の弁明を弄するだろうが、そんなものは詭弁に過ぎない事は衆人の目には明らかだし、其旨の言明を為すならば、同じ言理に因り、此族輩御一党が為して来た、教皇様が認可した団体や教皇様が任命した高位聖職者への否定的言説も撤回或は霧消しなければならないだろう。

 神学的問題を嗜好的問題に置き替える堕貶を容する者は、最早「天主公教会徒」では無く「カトリック・オタク」で在るし、年に一回の七夕的御大荘人民会食行為嗜好者集会だけでなく汎神教的音楽研究所も「カトリック・オタク」の範疇に嵌ると云うか、「カトリック・オタク」排出の元凶でさえ在る。

 「カトリック・オタク」の言説を封じる心算は無いが、「カトリック・オタク」には其なりに相応の場が在るだろう。

 「カトリック・オタク」と誹謗されて腹が立つ位なら、「カトリック・オタク」を辞めれば良いので在る、難しい事は在るまい。

 真に馬鹿バカしい。
2007年07月02日 22時43分24秒
あの日は偶々休日だった。
 事業部転任の辞令を受け、引越しの準備の為と称して休暇を頂いて休んで居たのだが、なにぶんにも急の辞令だった為、先方の受け入れ準備も何も出来て居らず、仕方なく会社の保養施設に厄介になって居た日の事だった。
 其れ迄はテレビなんぞ視る時間がなかったのだが、暇閑だった事も在って何気無くテレビのニュース番組を眺めて居た僕の目に飛込んで来た映像に心を囚われた。
 (以下、続ける予定)
2007年07月02日 11時05分41秒
聖血の月
 先月はイエズスの聖心の月で在ったが、今月は至聖なるイエズスの聖血の月で在る。
 今日は至聖なるイエズスの聖血の大祝日でも在る。
 今月は、日々の中でイエズスの聖血の連祷を祈祷る様に心掛け、又、祈祷れる恩恵を乞い願おう。
2007年07月01日 21時24分53秒
七月七日に発表される予定の教皇自発教令
例え此の教皇自発教令が、エクレジア・デイの単なる再確認に止まらず、色々と噂されて居る様な内容、つまりヨハネス23世改訂によるローマ・ミサ典礼書の全面的な解禁だったとしても、其れは「始まりの始まり」でしかないのではないか。

 謂う迄も無く、此のミサ典礼書に限らず、1962年版による典礼様式はルフェーブル大司教様達が守って来た典礼で在る。

 今迄「特別許可」や「許可」等の前提を以ってのみ可能だったとされて来た此のミサ典礼書に則ったミサ聖祭の挙行が、何の憂いも無く自由に挙行されるならば、此はルフェーブル大司教様や聖ピオ十世会の主張が正しかった事になるのではないだろうか?

 でも、ルフェーブル大司教様や聖ピオ十世会をケチョンケチョンにけなし貶めて来た第二バチカン公会議後の保守の方々は、自らの為した言動により1962年版のミサ典礼書に則ったミサ挙行法を受け入れる事は出来ないのではないだろうか?何しろ二言目には「旧ミサは廃止された過去のミサ」「旧ミサを捧げるのは破門・異端・離教連中」等と放った輩共で在るから、まさか手前の吐いた唾を飲む様な真似は出来ないだろう。

 兎に角、噂通りにヨハネス23世改訂によるローマ・ミサ典礼書の全面的な解禁が為されれば、「公会議原理主義」と謂う名の自称保守共の幻想的拠の一角を占めて居る霧か晴れるのではないかと思う。

 『始まりの始まり』が始まったとしても、其れは第一歩に過ぎない。


 第一、司祭職の概念が今と昔とでは違うので在るし、前にも書いたが、聖変化による実体変化を信じない司祭、殆んど異端者の如き思想に凝り固まって居る司祭、共産主義者の如き司祭等がトリエント・ミサを捧げると云う可能性が在るし、抑現存する大方の司祭はトリエント・ミサの挙行法を忘れて居るか端から教わって居ないのだから、捧げられないと思う。

 Ordo Missaeのルブリカ通りだけではミサを捧げる事は出来ないのは新ミサでも同じ事で在るが、大日本帝国国民が日本国国民には成れても戦後産まれの日本国国民が大日本帝国国民には成れない様に、公会議前の司祭は新ミサに於ても犠牲の概念を持ち得るかも知れないが、公会議後の司祭は新ミサの概念たる会食を保ちつつ犠牲の概念を持たずに旧ミサを捧げ得る可能性を危惧する。


 何はとも在れ、トリエント・ミサを一人でも多くの司祭が忠実に捧げ、一人でも多くの信徒が熱心に与かり、少くとも共同祈願や平和の挨拶の馬鹿げた騒ぎや典礼聖歌の無為性に気付いて下さる様に祈祷る次第で在る。


 始まりの始まりが始まります様に!



 一部百五十八円もする機関紙には紫衣一党が役代した旨がデカデカと載って居たが、「『日本における』ミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」なんぞをローマに提出する位だから、実質は何にも変わって居ないのだ。
 弩偉方が執拗に「日本」を口にするのは、暗にローマからの分離独立を意味しているのだ。
 現に、奴等の「日本観」は日本的ではないし、日本を無視したものだ。
 弩偉方は信徒に対して強権的に出る時には、ローマからの自らの紫衣任命と云うローマの御紋を盾に為るのに、一方ではローマに反発・反抗し、挙句の果てには緋衣の様にパパ様に不快感を露にしたりしても平気なので在る。
 弩偉過ぎて常軌を逸して居るのが解らないのかも知れぬが、信徒は先ず祈祷らねば為らぬ。
2007年06月29日 23時53分34秒
本日は『絶えざる御助けの聖母』の祝日で在りました。
 聖アルフォンソ教会主祭壇の上方に、絶えざる御助けの聖母の原画が安置為れて居た。
 感激の対面だったが、在日本教会堂に置かれて居る複画と同じく御頭には冠が無かった。
 多分、最初期には冠は無かったと云う因縁を突けて外したんだろうな。
 歴史学者モドキの要素は有っても、信仰者としての感覚が麻痺或は端から無い、低族流怒捨流断的輩の悪業だろう。


 先人達が何世代も経て培って来られた真理と信仰と信心を、忘却の彼方に放り去ろうとする動きに坑するのが間違いで在ろう筈が無いと思うが、真理よりも信心やら歌やら政治やら憲法やら何やらが優先する似非にもならない輩共には解るまい。



 嗚呼聖母よ、嘗て我等の先達が天主と御身に栄光を帰せんが為に御身と御子に被らせ給いし聖冠を、忘教忘恩の族輩が御頭より除きし不敬不忠を赦し給え。然れど此の忘恩不忠は我等の意に非ず。願わくは、栄光に輝きたる聖冠をば再び御頭に被らせ給わんと欲す我等の拙き祈祷りを聴き容れ給い、御身が御胎内に孕し給いし御子に御伝達ぎ給え。我等不肖なる罪人為れ共、全き信頼以て御身に頼縋り奉る。アメン。
 絶えざる御助けの聖母、我等の為に祈祷り給え。
 絶えざる御助けの聖母、我等の為に祈祷り給え。
 絶えざる御助けの聖母、我等の為に祈祷り給え。



 其れから、何時の間にか絶えざる御助けの「聖母」から、絶えざる御助けの「聖マリア」へと変わって居るんだな、ラテン語が。
 はぁ〜。
2007年06月27日 23時49分55秒
祝い日
 本日は恩人の童貞様の修道名の祝日だった。
 此の童貞様と先日御会いして四半刻程歓談出来たが、其の中で或る深刻な事柄が隠密且つ急速に進められそうで在る事を明かして下さった。
 マジで驚いた。
 そんで、イザと成ったら彼女等の避難場が必要だ。
 その為に聖ヨゼフと聖アントニオと聖リタに希う。
 あと、師父と師母にも御願いしよう。
 主よ、我等を憐れみ給え。
2007年06月24日 23時44分39秒
問ふてみる
 教区の規則に則って行われるミサで、司式司祭が聖変化を信じて居らなかったり、ホスチアやブドウ酒を聖変化させる意向が無かったり、風味を出す為にホスチアやブドウ酒に不純物が混ざった物を使ったりするミサ(前者)と、教区の規則に則って居ないものの司式司祭が聖変化を信じて居り、ホスチアやブドウ酒を聖変化させる意向を有し、ホスチアやブドウ酒に不純物が混ざって居ない物を使うミサ(後者)とドチラを択ぶべきだろうか?

 前者は適法だが秘蹟的には質料・形相共に無効で在る。

 後者は違法だが秘蹟的には質料・形相共に有効で在る。

 前者のミサが質料・形相共に無効で在る疑いが在る為に、例え法に触れたとしても有効な秘蹟を授ける行為は非難為れるべきで在ろうか?

 寧ろ非難為れるべきは前者で在り、この様な司祭を輩出させた者共と其の誤った所業ではないだろうか?

 秘蹟の本質から謂えば、適法でも無効な秘蹟と違法でも有効な秘蹟のドチラが、秘蹟の本質に叶って居るだろうか?

 有効な秘蹟を授ける為に法に反せざるを得ない愛徳と、無効ながら法に守られ憚って居る冷淡と、ドチラが天主に嘉納為れるだろうか?

 教会法の究極の目的は、霊魂の救いではなかっただろうか?

 有効な秘蹟を授ける為に、つまり霊魂の救いを確実為らしめる為に教会法に反しても、教会法本来の目的で在る霊魂の救いに合致して居るので在れば、教会法違反にはならない筈だ。

 此の為にルフェーブル大司教は司教を祝聖し、天主の救霊事業を絶やさぬ為に、十全たる聖傳に留まり続けたのだ。

 天主の御為に只一人孤軍奮闘したカトリック教会の英雄で在る。

 ルフェーブル大司教は天主様の御為に、たった一人で戦い続けたので在る。

 英雄には私心が無い故に英雄たり得るのではないだろうか?
2007年06月22日 01時10分47秒
Spera in Deo
 さて、一部百五十八円もする機関紙の最新号には、子供を中心に或る大会を開催した旨が載って居た。

 其の日は日本では「御聖体の祝日」で在ったから、信仰の感覚が機能して居れば大会の中心には「御聖体」が据えられて当然ではないだろうか?

 其処を「子供」にした処に、天主不在の教会、天主不在の宗教的意識(敢えて信仰とは謂わない)と言う様な病理が潜んで居る気がする。

 と云うか、御聖体が天主で在る事実さえ信じて居ない、或は御聖体が天主で在る事実が解らないから信じられない、又は御聖体が天主で在る事実を信じたくないから判りたくないのではないか?!と勘繰りたくなる。

 信じて居ないから、信じたくないから、信じられないから御聖体に真にましますキリスト・イエズスを大会の中心に据える事すら思い付かないのだろう。

 声欄も一緒で、どんな危機に対してどんな希望を抱くのか銘記せぬ、単なる思念・思索途中の半端で要領を得ない不思議な主旨の文章で在る。

 教会の中心に天主が居らないか、天主を占めるべき座から引き擦り降ろし被造物たるガキンチョは謂うに及ばず、反天主的・反公教会勢力に譲った事を証しした様なモンだな。

 でも、教会当局の行事だし、偉そうな方の言だからから、不問に付されるのがオチだろう。

 嫌だ厭だ。
2007年06月21日 23時34分32秒
再び「光」と「自称・詐称保守」
 謂うまでもなく、ロザリオとは至聖なる童貞マリアを崇敬する祈祷方法で在る。

 ロザリオを構成して居る玄義とか神秘等と言われて居るモノは、キリストと共に歩まれた聖母の御生涯で構成為れて居るし、先代の使徒的書簡ROSARIUM VIRGINIS MARIAEにも、「…ロザリオは、まさにマリア自身の経験に端を発するものである…」と記されて居るので在る。

 だが、同書簡に依って試みられる事と成った「光」には、カナの婚礼の他には聖母マリアの姿は観られないので在る。

 此の矛盾は、VT2原理主義に於て侭見られる痛い点で在り、同書簡でも此の原理を規範と為して居るので痛い点が見られるの遺憾では在るがは当然の事だ。

 ヘンテコリンな原理は兎も角、マリア様の姿の見えぬ「光」は新しい単体の信心としての「光のチャプレット」としてデビューするのなら賛意はせずとも理解は出来るのだが、新たなロザリオの玄義や神秘として押し売りするのは不適説で在る。

 ロザリオは其の唱えられるアヴェ・マリアの数が詩篇の篇数と同じ一五0で在る事から、聖母の詩篇――PSALTERIUM B.M.V.――とも呼ばれ続けて来たが、「光」を導入・肯定すれば聖母の詩篇では無くなるのではないだろうか?

 また、例えば此の「光」に懐疑的な態度を現す様事をすれば、即座に教皇様に従わない不満分子とばかりに紅衛兵の如くレッテルを貼って悦に浸向きが在るが、頭の中の品位、品質、風味等は大丈夫で在ろうか?

 カトリック教徒=「教皇の追っかけ」ではないのだ。

 とっくに破綻して居る貪・誤晦屁狂や囚人白砂利狂を奉じ、信仰の規準を幻覚に置いて居る狂信者には理解出来ぬだろうがね(笑)



 其れから、VT2の公文書だが、例えば典礼憲章を引き合いにして診るが、此に忠実で在ろうとする自称保守ならば、パウロ6世のミサは支持しちゃイカンよ。

 大体、典礼憲章の何処にミサを新しくする等と書いて居るのだ?

 「典礼憲章に忠実に」等と壊れた蓄音機の如く、或は何とかの一つ覚えの如く繰り返す割には、典礼憲章が決議された頃の、つまり典礼憲章が前提としていた典礼に見向きもせずに、却って典礼憲章には明記為れて居なかった新奇ミサを奉ずるのは何故なのだ?自称保守さん?


 序でに言えば、コンシリウムやら何やらの主導に因って公会議後の各種委員会が扇動され得たのは、保革両派其々が自由に解釈出来得る公会議公文書それ自体に欠陥があったからだ。

 自称保守さん達の目に余るとされる、各種委員会の逸脱を許したのは、保守さん達が後生大事に奉持する公会議公文書の曖昧さが許したんだな。

 でも解んね〜だろ〜な〜(笑)

 解んね〜から、自称ながらも保守を冠し、臆面も無く良心的成る飾を詐称出来るんだな。

 そんな族輩共に期待する方が大間違いなのは重々承知しては居るのだが、喩え傲慢に依ってでも折角「良心的保守」と自称為れる面々なのだから、「偽善的守旧」で無い事を自らの行動で示して下さるで在ろうを待って見る。

 他方では……、喩え典礼にラテン語とグレゴリオ聖歌を用いる行為が保守っぽい選択だとしても、新教徒に聖体拝領させるって何?それ?

 どんな保守なんだ?(笑)


 そう言えば一部百五十八円もする機関紙には、カトリックがプロテスタント的に成って嬉しいと仰った先生殿の記事が載って居たが、此を好しとする保守と悪しとする保守が居るんだそうだ。

 混沌たる保守って凄いな(笑)
2007年06月19日 20時57分09秒
ダイジョウブデスカ?
 「地獄の門も此れに敵わじ」と云う真実が在ると謂って、教会を済崩し的に取り扱って天主様を試みる如きの所業を為しても良い訳は在るまい。

 それから、極所的だの何だと四の五の謂うて悦に入る輩族には、カトリック的な精神、カトリック的な考え方が重要なのだと云う当たり前の事実を諭しても、所詮は御馬鹿な発言をして己の無智を曝け出す無恥な人間なのだから何を労しても無駄かも知れぬ。

 大体、神秘的なるモノを造り出すつー発想自体が痛すぎる位に痛い。

 神秘的と云う概念それ自体が既にカトリック的な概念から逸脱した思念に依って偽造されたのだと思われる。

 頼むから「カトリック」の名を詐称するのは止めて欲しい。

 信じなければならぬ事を信ずるのがカトリックなのだ、信じたい事を信ずるのは最早カトリックでは無いのだ。

 でも、多分、判らないだろう、判りたくないだろう。
2007年06月18日 20時25分27秒
やっぱり、生理的に受け容れられませんな。
やっぱり、「光の玄義」とやらは生理的に受け容れられませんな。

体が受け付けないんザマス。


今日、会話の中で出てきたモンで、是非を問うのに「食わず嫌いは良くない」と思って「使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』」を引っ張りだしてペラペラと頁を捲っていたら、次の箇所が眼に入って来た。

「……光の玄義のうちに、啓示者キリストの足跡をたどるとき……」

オイオイ、それじゃ低爺流堵奢瑠檀の発したる「イエズスは単なる先駆者に過ぎない(孫引だが)」と云う如き誤謬に通じると云うか、変らんぢゃねーの?

ヤッパリ駄目だ、嫌なモノは厭だ。

「直感」はある程度の「直観」を見ていたのかも知れない。


大体、『「光」の天使』って、何の事を指して居るか知っとる?


社会活動家を産出するには「光の玄義」が必要なのかも知れないが、聖人を輩出する為には「光の玄義」は不要で在ったし、此れは歴史的事実で在る。


それに、一般に流布されていた(とされる)『ロザリオは「古臭い」祈り』と云う讒言を如何して肯定するのだろうか?

「古臭い」と云う讒言を撥ね退けて爪繰り続けて居た僕にとっては、この讒言を肯定する様な言動は受け容れ難い変節に見えるのだ。

御仁の気は確かだろうか?
2007年06月17日 20時34分17秒
此も代替的行状也
 一部一五八円もの値を附ける割には中身が無く、企業努力の片鱗さえ全く見えぬ機関紙の今週の1面トップには、イタリアを除くG8各国の当該国司教協議会会長が各々の国の首脳に書簡を送って意気揚々として居たらしい記事が載って居た。

 何で、司教閣下とも在ろう御方が、其の辺の小学校の生徒会か何かで思い付く様な主張を喜々して送り乍、何故、カトリック神学に基づいた論旨による書簡を送らないのか理解に苦しむ。

 保守の意味が解って居ない自称・詐称保守殿なんぞは、度々「日本の教会だけがオカシイ」とほざくが、本当にオカシイのは日本の教会と同様に他国の教会もオカシイし、其等の事実が解らない、見えない、判ろうとしない、視ようとしない「保守オタク」其のモノがオカシイので在り、オカシイ者の良心の根拠も明後日の方角を向いたオカシイ、怪しいモノで在る。

 G8各国の司教協議会トップがイエズスの福音を告げ知らせる事を止め、カトリック倫理に基づく理念が占めて居た席を客観的乃至民主主義的なる何だかに代替として明け渡した結果ではないか。

 また、ダルフールの虐殺に言及したのならば、この忌むべき惨事を支援して居る非人道的無人権国家支那中共政府の愚劣極まり無い罪状を糾弾し、何等かの制裁を呼び掛けるべきではないだろうか?

 だが、相手が支那中共だと本来ならば白日の下に晒し出すべき事実でも政教分離を盾にして不問の暗幕で覆い隠して見向きもしない質の悪い連中で在るから、無理かも知れない。

 天主様は巌磐の上に御自身の教会を建てられたが、此を削岩機で粉々にし砂上の楼閣にせんと励んで居るのが緋や赤紫の衣を纏った弩偉い連中と、其等に盲従するのが良心的だと信じて居る自称・詐称保守連中ではないか。
2007年06月14日 23時17分18秒
多重規範の痴者
 常日頃から声高に民主主義を賛美し、民主主義を守る為に憲法改正には猛反対して居る族輩が居る。
 此等の民主主義教信者達は、無血による民主主義革命を成し遂げ、台湾を民主主義化する事に成功した台湾の前総統には冷ややかなのは何故だろうか?
 素晴らしい程の二重規範で在る。
 常日頃は平和だの非暴力だのと騒いで居る方々だから、民主主義の具現者でも在る台湾前総統が非民主主義国家人民で在る支那人暴漢に襲われた事実に対して、猛烈な抗議を支那中共大使館にして下さるだろう事を期待して居る。
 其れが出来なければ、やっぱり紛い物だな。
 正義と平和なんたらを飼って居る何とか協議会も同罪だ。
2007年06月09日 18時48分54秒
毎度御馴染の……
……一部百五十八円もする某機関紙には、百八十八殉教者列福決定の報が載って居る。

 思想信条が違えば、殉教と謂う事実の捉え方が異なる事実が在るのだが、此の現実を視ずに如何なる共通の希望と光を投げ掛ける好機に繋がるのか不思議だ。

 思想信条の拠り処に依っては、殉教者を「頑迷な西洋被れの売国奴」とか「神仏に仇為す不忠者」等々と臆面も無く扱き下ろすのだ。

 死人に鞭伐つ非礼を恥ずべき事だと認識して居る者でも、嘗てのキリシタンは西洋の侵略の手先に成ったから殺されて当然と云う如く非情だったりする。

 思想信条の「確かな」違いを見据えずに甘言を弄する事は良心的なのか?単なる腰抜ではないのか?況して赤紫衣を纏う身為れば、真理に仇為す卑怯者、乃至天主への裏切り者で在る。

 緋衣も『無抵抗、非暴力の抵抗によって「殉教させられた」』とは言い掛かりも甚だしい、此を「因縁を衝ける」と云う。

 キリシタン時代は云うに及ばず、聖使徒や初代教会の折りより公教会の信仰を守る為には殉教をも辞さず、却って此を享受致すのが公教会徒の矜持で在ったが、緋衣様の中では違う様だ。

 先の教皇様の教皇文書にも因縁を衝けて「抵抗」した緋衣だから、同欄に在る百八十八殉教者を画いた画にラテン語が標されて居る事に対して是非とも不快感を露に為れて欲しい。


 ラテン語のハウツー本の著者は、キリシタン時代の殉教者が天主の祭壇に挙げられる事実を目の前にしても尚、日本の公教会の歴史は幕末以降の再宣教から百四十年程しかないとほざいて居る。

 オマケに、天主の定め給いし秘跡を司る権能を授けられし者を中心とした教会には御不満の様だから、聖職者抜きの集会祭儀をラテン語とグレゴリオ聖歌を用いたら如何で在ろうか?

 確にカトリック教会の公用語はラテン語だし、ローマ典礼固有にして首位を占めるべき聖歌はグレゴリオ聖歌だと公会議公文書ではそう示して居るだが、其を建前上だけの空文にし、ラテン語とグレゴリオ聖歌を実質的に否定して居る原理が支配して居る現実に眼を向け無いのが不思議だが、意図的に眼を反らすのが良心的だとする誤った風潮に冒されて居るならば、堂々と直視出来る勇気が無いのも当然だろう。



 それから、キリスト者の希望の根源は最後の晩餐では無くて、主イエズス・キリストの御受難、十字架上での御死去、三日目に御復活為された事実を含む信仰箇条と、個々人と天主との信仰で在る。

 天主に叶わぬヘンテコリンな原理を行使すれば、修道会が瀕するのは当然だ。

 大掛りな総会や頻繁な会議に時間や費用や人員を浪費しても状況は改善されまい。

 諸浪費の前に、其らしい用語と甘言を羅列して人心を天主から反らす原理を追放し、安楽を捨て去った上で創立者の源泉に還帰すれば、答えは見付かると思うのだが。



 今週は俳句欄も川柳欄も無かったが、クララ先生を知る事が出来きた、併せて司祭と修道女の永遠の安息を祈祷る。



 現教皇様の統治に不満をほのめかす記事を載せたりする処に、此の機関紙の偏向振りが現れて居る。



 天主様の御為に、天主様が嘉納し給う人類の救霊の御為に非暴力的な「反抗」を為さねば為らぬ時なのかも知れぬ。

 言論さえ暴力の行使に等しい昨今なのだから、矢張祈祷りと犠牲しか術がないのかも知れないし、此が公教会のスタンダードだ。
2007年06月08日 22時30分18秒
御聖体の大祝日
 本日は御聖体の大祝日で在るが、宣教地にして信者数が脆弱な我邦では来る主日に祝う許可を得て居るそうだ。
 だが、本来は今日祝うべき祝日で在り、本日の曜日と聖木曜日が同一で在り、関連性が在る事にも留意すれば、例え主日に改めて祝うにしても、一旦は今日に祝うわけにはゆかないものなのだろうか。

 マニフィカトのアンティフォナは祈祷りも旋律も本当に美しい。


 妻に感謝。
2007年06月07日 23時59分58秒
 
 台湾の前総統が靖国神社へ詣でられ昇殿参拝を為された。
 上背の在られる前総統が本殿に現れ為された時、えも言われぬ感動を覚えた。
 念願叶われた其の胸中の感慨を僭越乍伺いつつ、前総統の御参拝を拝殿前から見護る栄を賜れた。
 本殿より退出為れる折り、三浦朱門氏らしき方が同伴為されて居る事に気付いたが、三浦朱門氏か否かは解らぬのが残念で在る。
 御参拝の為に本殿を昇降為れる前総統の御姿を拝し、感動を覚えたと先に述べたが、前総統の御姿に神々しさを感じた為に覚えた感動で在ると確信して居る。


 何時も乍、報道関係者のマナーの悪さには怒りを通り越して呆れてしまう。
 一体、何様のつもりで居るのだろうか。
 本当に大塵芥共だ。


 帰ったらデジカメのデータを改めて見るつもりで在る。
 写って居るかな。
2007年06月07日 11時24分13秒
主権不在国家
 先日、支那中共独裁政府体制打倒の為に現在アメリカに亡命を余儀なく為れて居る民主化運動活動家の魏京生氏が来日したが、入国管理局が入国を拒否し身柄を拘束すると云う恥ずべき行いを為した。

 此の愚劣極まりない処置の陰には、思い上がった支那中共独裁政府の意向を受けた反日政治屋や嫌日官僚、或は売国財界奴と言った人権蹂躙国家の走狗に成り果てた輩共が、入管辺りに圧力を掛けたのだと思われる。

 此等の日本人の振りをした人権蹂躙国家の宦官共は国賊で在り、支那中共独裁政府は文字通りの反人類的凶悪政府で在るが、日本では国賊が傲り昂ぶり栄え、反人類的凶悪政府支那中共国家の意向が妖しげな威光を放って居る異常事態に在る。

 異常事態だけに反日政治屋・嫌日官僚・売国財界奴と謂った族輩だけでは無く、最近は宗教家も人権蹂躙国家の支那中共独裁政府に媚る輩が出てきた。

 と、云っても既述の日本国際社会主義カトリック的教会の他にも支那中共政府の宦官宗教家が居る事が明らかに成った。

 先の雑記にも取り上げ為せて頂いた来日中の台湾国前総統が中尊寺訪問の折りに、支那中共政府の意向を受けた当該寺院側に依って賓客扱いをされなかったのだ。

 別に、前総統を賓客として迎える事の可否の裁量を是非するのでは無い。

 併し、本来為らば其は当該寺院の裁量に依るもので在り、支那中共政府の意向なんぞ鬢にも掛らぬものではないか。

 支那中共政府は自らの共産主義と謂う宗教以外の宗教を徹底的に弾圧し、支那中共政府のエキスが注入され骨抜きに為れた官制宗教以外は御法度の国で在り、官制宗教でも抑圧下に在ると謂う異常な程の反宗教国家で在る。

 此の宗教の敵で在る政府の意向を易々と受け入れた当該寺院の見識は、仏教徒のモノなのか否かは無学無能の徒為る僕には解りかねるが、少くとも宗教家の眼力を以た眼識では無い事位の推測はできる。



 今一度、日本国民が大和魂を持って居た頃、当時の同盟国ナチス・ドイツの迫害から逃れたるユデア人等を助けられる日本人としての矜持をも持って居た事を思い出したい。

 ユデア人等を助けたる方々の中には、後の極東国際軍事裁判と謂う茶番に於て、A項戦犯と謂う濡衣を着せられ、刑場の露と消えし御方もいらっしゃられる事も忘れては為るまい。

 民族の矜持と共に国家主権も取り戻さなければ為らないと思う次第で在る。
2007年06月06日 23時42分43秒
三児の魂
 僕が嘗て歌って居た校歌と謂うモノは殆んど覚えていないのだが、不思議な事に幼稚園の園歌だけは覚えて居る。
 園歌を思い出す折りには、あの頃の記憶が蘇るから此も不思議だ。
 僕の通園時とは園舎や幼稚園バスをはじめ、先生方は勿論の事、用務員のオジサンや怖かった園長先生も含めて何からなにまで変わってしまっただろう。 だが記憶とは異なって居ても「僕等の幼稚園〜♪」は今でも僕の幼稚園で在り、此からもそうで在り続けるだろう。
 帰省する機会に恵まれれば、訪れて観たい所の一つで在る。
2007年06月05日 23時40分30秒
日台の紲
 台湾の前総統が来日為れて居られる。

 空港等々に出向き歓迎の意を表したかったが、其れも侭ならぬのが無念では在る。

 せめて帝都にて行われる講演を拝聴為たかったのだが、此れも色々と手続きが必要らしく叶いそうも無く、口惜しい。


 謂う迄も無いが、何処何の反日国是国家首席野郎よりも前総統の方が国会演説を為されるのに相応しいし、何よりも国賓待遇を以て饗応すべきで在ろう。

 其れが出来ぬ政府、否、政権、否、与党なんぞ保守為べきでは無い事が改めて解った次第で在る。

 我邦を激励為れる方を冷遇し、我邦を貶める豚共を礼遇する様な『馬鹿』で異常な体制を建て直すべきではないだろうか!

 つまり戦後体制を根本から建て直す為には、此の直に瓦礫に帰すべき体制を担い堅持して来た輩族を支持するべきでは無いと謂うのだ。

 此は保守を自認為る方々に特に申したいのだか、如何に保守を名乗られても其の実は単なる利権保守だったりするから始末が悪いし、現に謂うても無駄なので在る。


 公教会も我邦も長い歴史を有し、互に長い歴史の淘汰に晒されて残った伝統をも有する。

 だが、公教会も我邦も、昨今では伝統と謂うモノを恰も「形骸」の如き観念を以て軽視或いは蔑視する向きが主流で在るが、此は実に嘆かわしい潮流で在り、此の濁流こそが公教会も我邦も破壊し尽す激流なのだ。

 故に公教会も我邦も歴史の淘汰に晒されて培られて洗練為れて来た揺るぎ無き伝統と云う磐石の上に礎を定めるべきなので在る。

 そして、公教会も我邦も伝統を破壊し始める鏑矢と為った事柄が在る。

 公教会に於ては第二バチカン公会議が其れで在り、我邦では極東国際軍事裁判が其れで在る。

 前者も後者も、各々の有する歴史を其れ以前と其れ以降に分断し、各々のターニング・ポイント以前を「悪」、以後を「善」と為す大キャンペーンを展開し、其々に於ける歴史の分断に成功し、其れに因る伝統の根絶にも成功したと云う近似性が在るので在る。


 御自ら保守を自負為れる御大層な面々曰く、公会議公文書は真正なモノで在り、公会議公文書の実行委員会がデッチ上げた公会議公文書の解釈やら解説やら、公会議公文書に則ったと言ってデッチ上げた指針等の逸脱が悪いのだと云う雑言を臆面も無く申されるのだが、そもそもデッチ上げられる様な曖昧な条文を採択したのは、逸脱を為せる為に成したのでは無いかと勘繰られも仕方在るまい。

 何れにせよ、公会議公文書の文面は如何で在れ、何時の間にか造り出され独り歩きさせられた「公会議の精神」が公会議公文書を凌駕し、此のいかがわしい精神が公会議公文書に無上の権威を與る一方で、此の公会議公文書の権威を貶めて種々雑多な逸脱を産み出したので在る。

 此を日本語では「滅茶苦茶」と云うと思うが、神学用語では「現代化」とか「文化的受肉」等と言うのかも知れない。

 天主様が名ばかりの人民教会では、此の現代化や文化的受肉と云う嘗て公教会に於て排斥為れた近代主義等の誤謬が大手を振って濶歩して居るのが現実なのだが、此の現実を苦々しく思っても分断為れた歴史以降の公教会、つまり滅茶苦茶で混沌とした教会が在るべき姿だと思わされ、思い込まされ、信じ込んで居るが故に、立脚すべき伝統が皆無か稀薄な為に苦々しく思うだけで終り、精々アングラ紙等で気勢を吐いて悦に居るのが謂ゆる保守の実態で在る。

 しかも、本来ならば若い者を善導すべき長老格の方々御自身が、公会議の精神を伝播し、公会議精神の実践に奔走した面々で在り、其れ等の方々が伝統に立脚為ない詐りの保守の仮面を被って誤導されるのだ。


 我邦に於ても然り、極東国際軍事裁判と占領統制下に於て創られた伝統皆無の規範を奉じて依る愚が、今や国家民族を瀕して居るので在るが、古の規範を無くし国家や国民を食い物にし続ける政治家・官僚・企業は更に貪るので在り、伝統と云う心なき愛国を売り物にする学者や作家や評論家も然りで在る。

 謂ゆる保守が掲げる平成維新は、己の名を挙げる者ばかりが多い故、頓挫するのは時間の問題かも知れぬ。

 明治維新を成した志士等は、名を惜しんだが故に名を遺したのではないか。

 此処にも伝統性が欠落した弊害が視られる気がする。

 国籍上は嘗て日本人で在られた前総統が体現なされる日本的な御姿を拝し強く思わされ、高齢者に限られるとは申せ、東京裁判以前の日本の心が遺し為れて居る台湾との紲を確固としなければ成らないと重ねて思わされた。
2007年06月02日 22時46分26秒
早いもので
 レジナ・チェリも明日の朝と昼に唱えるのみとなり、明晩からはアンジェルスに復す事になる。
 同時に聖務日祷書も別巻に代わる。

 皐月の妃后の月も過ぎ、聖心の月が廻って来た。
 何時もよりも一層、主の聖心に依り頼もう。
2007年06月01日 23時57分30秒
しっかし……
 一部一百五十八円もする某機関紙の最新号には、ハッキリと『「赤」とか「左」とか「国家転覆画策集団」とか「暴力行使革命礼賛集団」等と歩みを共にしてま〜す!』なんて記事は一蔑した処では視られない錯覚を起こしそうに為ったが、紙面の端々に如実に現れて居る「いやらしさ」は何とか成らんのだろうか。
 それから、教皇庁大使閣下の神宮訪問に就いて、神社新報と駐日法王庁大使館から『ウラ』を録って「拝礼なかった」と見出しを出して居るが、だからそれが一体どうしたと云うのだろうか?
 そんな程度の僕でも書けそうな下手な記事より、今回の大使閣下の神宮訪問に対する「一部一百五十八円もする某機関紙」の見解は無いのだろうか?
 何時もながらの神道への敵意丸出しの論調は一体全体何処へ消え失せたのだろうか?

 中央協議会だか何だか知らんが、弩偉い緋衣や紫衣を始めとした御一党様方は、駐日大使閣下に倣って日本文化を知る努力を為されたら如何だろうか?
 ラテン語典礼やグレゴリオ聖歌、或いは跪いて御聖体拝領を望む者を「西洋カブレ」と罵る位だから、御自身等は充分にナショナルな方々だと錯覚して居られるらしいが、典礼はラテン語やグレゴリオ聖歌を用い、御聖体拝領は跪いて舌で受けるべきと云う立場を執る者で在る僕から視れば、御一党様方は「日本化」とか「日本の」とか云う御題目を叫ぶだけの「西洋崇拝者」或いは「西洋盲従者」に過ぎないのだ。

 何なら駐日大使閣下に神宮を案内して頂きながら、日本文化を教えて頂いたらどうだろうか?

 弩偉い緋衣や紫衣を始めとした御一党様方の日本観が如何に「日本」から乖離したもので在るかに気付いて欲しいモノで在る。

 本当に、いい加減にして欲しい。
2007年05月31日 23時33分12秒
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