グレゴリオ聖歌

 私は教会音楽の専門家でも、グレゴリオ聖歌の研究家でもありません。よって、ここに述べられている事は、研究論文等という崇高なものでは無く、一個人の”たわごと”に過ぎませんので悪しからず。

 私がグレゴリオ聖歌と出会ったのは、「聖母マリアへのまことの信心」という、聖ルドビコ・モンフォールが著わした珠玉の信心書の巻末に掲載された「Salve, Regina」という聖歌が最初でした。単純な旋律で歌い易く、非常に親しみを覚え易い聖歌だと思います。人づてに聞いた話だと、「昔は、ミサの後に歌っていた」との事、なぜ今歌わないのか不審に思ったものです。(ミサ後の祈りに就いては、祈りの項目か、ココをクリックして下さい。)

 そうこうしている最中、東京のカテドラルで行われていた「初土曜のミサ」に行きました。主宰の神父様との知己を得た為です。そこでは、ラテン語の通常文が歌われていて、何とも表現し難い感動に包まれました。歌っている言葉の意味は分かりませんでしたが、歌のもたらす雰囲気、敬虔さを醸し出し、祈りを促す雰囲気に圧倒され、その”とりこ”になってしまいました。

 でも、小教区で行われるミサには、日本語の聖歌だけが用いられ、ラテン語の聖歌は決して用いられる事はありませんでした。「なぜ?」という疑問をぶつけたところ、帰ってきた返事は「第二ヴァチカン公会議で廃止された」との事で、「あのミサは、古臭い頭を持った司祭が勝手にやっている事」との返事を受けました。廃止云々は置いといて、司祭が勝手に云々と言う件には、その司祭と知己を得た際に受けた感銘と違う事から疑いを持ち、自分で公会議公文書を紐解いてみました。すると…「116(グレゴリオ聖歌と多声音楽) 教会は、グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌として認める。従ってこれは、典礼行為において、他の同等のものの間で首位を占めるべきである。」と記されていました。「廃止された」とか「勝手にやっている」とか言う意見は、公文書を読んだ事の無い人の意見、もしくは、公会議の決定を歪曲した意見、または、それらの意見を鵜呑みした発言だったのだと思いました。

 それから暫くして、同じ東京カテドラルで「ラテン語による司教荘厳ミサ」が行われるとの情報を耳にし、行ってみました。式次第のパンフレットも充実していて、初めてのラテン語のミサながら、戸惑う事無く参加できました。特に、広いカテドラル一杯に入った参列者と共に「クレド(信仰宣言)」を歌った時の、霊魂を揺さ振られるような感動は、忘れられません……。

 しかし、この様なミサは、例外なのでしょうか、年一回との事です。何故なのでしょうか?別に、典礼への日本語導入に異論を挟むつもりは毛頭もありませんし、むしろ有意義な事だと思います。でも、教会の伝統 ― 過去と現在を結び、未来へと繋がるであろう ― であり、典礼憲章が「首位を占めるべきである」と宣言しているグレゴリオ聖歌が顧みられないのには、些かながら疑問を抱きます。

 決して典礼的とは言い難いフォーク音楽を用いてのミサは頻繁に行われるのに、グレゴリオ聖歌を用いてのミサは余り行われないのは、一体どう言う事なのでしょうか?

 Legem credendi statuit lex orandi(祈りの規則が信仰の規則を定める)という言葉があります。「教会の典礼は真の信仰を保つ為、及び解釈する為の最も効果的な方法である」と言う意味です。もし、典礼の法を自分勝手な考えで歪曲・逸脱するならば、その人の信仰は一体どの様なものになるのでしょうか。カトリックの典礼から外れたのならば、もはやカトリックの信仰では無いと言う事が出来るのではないでしょうか?

 同じ様に、ローマの聖座が定めた典礼の法に従わない人々は、もはやローマ・カトリックとは言えないのではないでしょうか?「何故、ローマばかり見る必要があるのだ」とか「教皇は第二ヴァチカン公会議の路線から外れて保守的になった」等と発言なさる方は「日本独立カトリック教会」でも創りたいのでしょうか?


 die 5 Octobris 2004:
 以上は此の家頁を開設した頃の気持ちでした。今では少々考えが違って居ります。問題は違うところに在る事に気が付きました。もっと大きな問題に直面してしまったのです。
 典礼用語がラテン語か邦語か、又は聖歌はグレゴリオ聖歌か邦語聖歌か、と云う様な問題に固執するのは此の大きな問題を矮小化してしまう事に気が付いたのです。
 例え典礼にラテン語が用いられグレゴリオ聖歌が歌われても、十全なる眞のカトリック信仰が無ければ、意味を為さない事に気が付きました。
 勿論、典礼用語や聖歌を蔑ろにし、典礼の陳腐化促進に賛成すると云う意味では在りません。寧ろ其の反対で、大きな問題に直面したが故に、典礼用語はラテン語原則でなければ成らない理由、典礼聖歌はグレゴリオ聖歌が首位を占めなければ成らない必然的な理由が解りました。
 
この家頁で、その大きな問題を扱う事は家主の許容範囲を超えるので出来ません、悪しからず。
 そんな訳で、少しずつ手直しをして行きます。

Tu autem, Domine, Miserere nobis!

 

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