カトリックの死生観

 死とは、人情的な面から見れば、たとえ一時的な事とはいえ、死によって親子夫婦兄弟朋友の様な近い縁につながれた者と別れなければならないのですから、嘆き悲しむのも無理のない事です。しかし、カトリックの信者はその悲しみの中にも、大なる慰めと希望があると思います。以下にカトリックの死に対する簡単な考えを記します。

人はなぜ死を恐れるのか?

 昔から死という事柄は、非常に忌まわしいもの、不吉なもの、穢れたものとして嫌われているようです。殊に日本では一層不浄なものとして、葬式に参列すると家に帰って先ず入口で体を浄めなければ座敷には通らぬ人がいたり、或いは自分の家に死者があって葬式を送り出すと外火を焚く。それは送り出した死人が帰って来ない様にと云う意味だそうです。それのみならず、シという発音、例えば四番、四十四番等ということを忌んで嫌う人もいるそうです。これらは勿論、私達カトリック信者から見れば、取るにも足らない迷信から来ているのですが、とにかく非常に死を忌み嫌うのは事実ではないでしょうか。しかし、どれほど死を恐れても嫌っても、この世に生まれ来た以上は『死を免れることは出来ないのです』旧知の人や同窓の友も亡くなった。厳格に私を教育した父も死んだ。私を愛し、はぐくみ育てた母も亡くなった。祖母もなくなり叔父もなくなり、従兄も死んだ。やがて自分も必ず死ななければならない。それなのに何故それほど死を恐れるのでしょうか。

死を恐れる理由は?

 死を恐れるのは、要するに宗教的信仰の欠乏であって、主なるものが二あると思います。第一は、現実にある夫婦家族や親しき友との交わり、富の安逸、肉体的な快楽等、この世の幸福を死によって失うという暗い絶望の為である。第二は現実主義者である方達にも、何となく未来に対する不安があるからではないでしょうか。此の不安の念が彼らの心を圧迫し、それが彼等に取っては極めて不明瞭で、しかも恐ろしい姿のものとなって現れるのではないでしょうか?

 現実の事のみに憧憬がれて、信仰なく救いなくして死ぬるところの死は恐るべき死であると思います。それが死という事を、其の念頭に浮かべるさえも忌まわしい事と見做し、これを考え様とはせずに、努めて死の考えを避けて現実の生活のみを享楽して、なるべく長命を得ようと望んでいるのではないでしょうか?中には、死んでも生命があるようにと願う人もいます。

 しかし、人は確かに死なねばならない。確かでないのは何時、どこで、どのように死ぬのであろうかという事だけです。自称現実家の死に対する不安な心理状態は垣間見る事は出来ませんが、カトリック信者から見れば、大変気の毒に思います。

 真のカトリック信者は、死が眼前に迫っても決して恐れないと思います。泰然として死を迎えるのではありませんか。それどころか喜んで死を迎えるのではありませんか。

なぜカトリック信者は死を恐れないのか?

 真のカトリック信者は、自称現実家が幸福とするこの世の幸福は真の幸福でないと知っているので、これを失うことを少しも恐れません。また死後永遠に失うことのない真の幸福に対して深い希望があって、死はその幸福に至る門出であると確く信ずるので死を恐れないのです。

神様はなぜ人間をお造りになられたのか?

 神様が人間を御造りになった思し召しは、現世の富や栄達、肉体の快楽の様な、不安定で消え去るものを与えるためではなく、知恵と自由意志を備えた万物の霊長なる者に相応しい、完全な幸福を与えられる為なのです。人は霊魂と肉身を合わせたものです。死とはその霊魂と肉身が離れることです。肉身は土より造られたもので、この地上の事に憧れ、この世の事で満足しようとしますが、霊魂は神に像って造られ、人の生命と知恵の本であって、死んでも消滅するものでなく、この世の物では満足ができず、真、善、美に憧れ、これを得て初めて満足が得られるのです。神様は、人々に死後天国に於いて真、善、美の源、眞、善、美そのものである神様を見て、永遠に満足し楽しませるために人を造られたのであります。カトリック信者は神様から啓示された教えによって、この道理を固く信じていますから、少しも死を恐れないのです。

 人々の中には、自分が産まれてこの世に存在する理由や目的、死後に行き着く所も明らかに知らずに、五里霧中にさ迷っている様な人が少なくありません。彼らの様な人の「灯台」となって、人生の目的を知らせ、その方針を定めて幸福の港に導くのはカトリックの教えであると思います。

人がこの世に存在する意義に就いて、カトリック教の教える真理の大要は、次ぎの三点に絞られるのではないかと思います。

1. 人は皆、万物の創造主なる神様より造り出されたものです。

2. 神様が人を造りになられたのは、神様を認め、神様を愛し、神様に仕え、最後に限りなき幸福を与えるで為です。

3. 人は死後、神様の御前に出て、この世にいた時に行った善悪に就いて裁判を受けます。それにより、死後永遠に続く賞罰を定められ、善人は限りなき「幸福」を受け、 悪人は限りなきの無い終りの無い「わざわい」を受けるのです。

人がもしこの道理を明らかに知ったなら、その生活は常に正しい道に向かって進み、道徳上少しも後ろめたい事はなく、平穏な生涯を送り、そして、喜ばしい死を迎えることができるのではないでしょうか?。

このホームページを見ている人も、必ず一度は死の門をくぐらなければならないのです。その時に安心して死を迎えることの出来る様に、カトリックの真理を学び、真の神様の御旨に従って、生涯を送られてはいかがでしょうか?。「死の人に来るは盗人の家に来るが如し」と言う言葉そのものです。いつかは知れないのです。油断は大敵であると思います。

人の死に臨む時は最も大切な時です!

 死後永遠の「幸福」と「わざわい」は、特に臨終の時に定められると考えられています。神様の御裁判を受けて、天国の限りなき福楽を申し渡されるならば、永遠に幸福な者となり、不幸にして地獄の限りなき罰を申し渡されるならば、永遠に不幸な者となり、いつまでも、決して苦しみを免れる事は無く、いくら悔やんでも取返しはつかないのです。忘れてならないことは死後の賞罰は永遠であるという事です。それでカトリックにおいては、死に臨める信徒自身は、その生涯に犯した罪に就いて心からの痛悔を起こし、信望愛の心を以て、熱心に祈りをし、つき添う親族知人は、彼を助け慰めて、善き臨終の準備と覚悟をさせます。司祭は病人に元に来て、病人に告解、病者の塗油、御聖体の秘跡を授けて、定められた祈りをし、特に、霊魂が肉身を離れんとする時、立ち会っている者一同が、心を合わせて祈り、病人は安らかにその霊魂を神様の御手に委ねるのです。

カトリックは死者の記念を大切にします!

 キリスト教と云えば一般に死者の記念もせず、死者の弔いもしないものと思う方もいるかと思いますが、カトリックは決してそんな教えではありません。カトリックには死者を弔うミサ聖祭という荘厳な儀式もあり、死後三日目、七日目、一カ月目、一周年の記念もあり、死去した当日に特別死者の為に祈ります。また典礼が記念する中に、十一月二日は死者の記念日として祈り、また毎日のミサ聖祭や、朝夕の祈り、また食事の後にも死者の為の祈りをします。

 


人一度死して然る後審判ある事差定まれり。(ベブライ人への手紙 九章二七節)

人生は死にして死は確実なり。 (聖アウグスチヌス)

我は復活なり生命なり、我を信ずる人は死すとも活くべし。活きて我を信ずる人は凡て永遠に死すことなし。 (聖ヨハネ福音書 二十五章二六節)

人全世界を儲くとも、若し其の生命を亡わば何の益かあらん。又人何物を以てか其の魂に昜へん。(聖マテオ福音書 十六章二六節)

参考文献:カトリック葬儀の大意、公教提要

 

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