祈りについて

祈り Oratio

 神の臨在の意識に対する自発的応答。この応答は神の偉大さを認め、人の全面的神への依存を認めること(礼拝)、或いは神から自分又は他人に与えられた恵みに感謝すること(感謝)、犯した罪に対する悲しみを表し慈悲を嘆願すること(贖罪)、或いは必要な恩恵を求めること(祈求)、全善である神に愛を示すこと(愛)です。つまり、神を礼拝し、その恩を謝し、罪の赦しと恵みとを願う為に、心を神にささげることです。礼拝とは、神の無限の完全性とその最高の権能とを敬い称えることであり、感謝とは、人間としても、絶えず受けている神の多くの恩を正しく認め、心から感謝することです。罪の赦しを願うとは、罪人として神の御前に謙遜と痛悔とを表し、神の憐みを乞うことで、恵みを願うとは、永遠の救いの為の恩恵を、次ぎに摂理に適う限り、この地上の生活の為の種々の恵みを願うことです。祈りの時の心構えは、信心、謙遜、信頼、委託、忍耐の心をもってすることです。

 祈りとは心を神に上げ、神を崇め、感謝を捧げ、必要なものを願い求めることです。祈りには、心の内で捧げる祈りと、心を集中して信仰の精神をもって声を出して唱える祈りとがあります。他にも信者の私的な祈りと、教会の公的な祈りとがあります。私的な祈りとは、自分又は他人の為に個人的にする祈りのことです。公的な祈りとは、教会の名において聖職者が信者の救いの為にする祈りです。また宗教上の行列や巡礼、或いは教会内で信者が一緒に唱える祈りも公的な祈りと呼ぶことができます。

 祈れば、神が必要な恩寵と助力をくださるという希望は、全能で慈悲深く忠実な神の約束とイエズス・キリストの功徳に基づいています。恩寵を乞い求めるには、イエズス・キリストの御名において必要な恩寵を乞い求めなければなりません。つまり、イエズス・キリストが教え、教会がその通り実行しているように、全ての祈りを「主イエズス・キリストによって」という言葉で終えるのです。キリストの御名において神に恩寵を乞わねばならないのは、イエズス・キリストこそ仲介者であり、キリストを通してのみ神の座に近づくことができるからです。

 しかし、祈りにはそれだけの力があるのに、しばしば祈りが聴き入れられないことがあるのは、永遠の救いの妨げになることを求めたり、正しい態度で乞い求めなかったりすることが多いからです。神に特に願わなければならないのは、神の栄光と私達の救い、救いを得る手段です。神の御旨に適い、永遠の救いの妨げにならないことであれば、この世の善を願うのは正しいことです。神は私達の必要とすることを全て御存じですが、私達が神を全ての善の与え主として認め、謙虚な心で従うことを示し、神の恩寵に与える為祈り求めるよう望んでおられます。効果的な祈りの為に一番必要な心構えは恩寵の状態にあること、或いは少なくとも恩寵の状態に居たいと望むことです。

 良い祈りの為、特に潜心、謙遜、信頼、忍耐、忍従の心を持たなければなりません。

潜心して祈るとは、神と話していると自覚し、敬いと信仰心を持って祈り、気を散らさないよう努力すること、祈りと関係のないことを考えないよう努めることです。わざと気を散らしたり、注意が散らないように努力しない時、祈りの効徳は減ります。しかし神と静かに語り合うようできる限り努力するなら祈りの功徳は減るどころか却って増すことになります。潜心して祈るには、祈りを始める前に気を散らす原因となるものを全て遠ざけること、そして祈りの間私達を見つめ私達の言うことに耳を傾けてくださる神の御前に居ることを考えなければなりません。

謙遜に祈るとは、私達に価値はなく、無力で哀れな状態にいることを正直に認め、正しい姿勢で祈ることです。

信頼して祈るとは、祈りが神の栄光と私達の真の善を求めるものなら、必ず聞き入れてくださると確固とした希望をもって祈ることです。

忍耐強く祈るとは、神が直ちに聞いてくださらなくても諦めず、さらに熱心に祈り続けることです。

忍従して祈るとは、神の御旨は受け入れなければならないということです。神は私達の救いに必要なこと全てを御存じですから、たとえ祈りが聞き入れられない時にもそれを神の御旨として受け入れることです。

 良い祈りなら神は何時でも聞き入れてくださいます。ただし永遠の救いに役立つ仕方でということであり、必ずしも私達の望み通りにではありません。

 祈りの効果とは、祈りによって、何物にもまして主なる神に依存していることを悟り、天上の事柄に思いを馳せ、徳に進歩し、神の慈悲を得、誘惑に打ち勝つ力を与えられ、苦難の時には慰めを受け、困窮に際して助けの手に支えられ、最後まで耐え忍ぶ恩寵を得ることができるのです。危険や誘惑や死に直面した時、特に祈らなければなりません。

 その他朝夕、一日の生活のうち大切なことを始める時など頻繁に祈らなければなりません。そして、全ての人の為に祈らなければなりません。自分と両親、目上、善行者、友人、又、敵の為、罪人や離教者の改心の為、煉獄の霊魂の為に祈らなければなりません。

 参考文献:各種公教要理書等

祈りの標語

Legem credendi statuit lex orandi

St. Celestinus I (42232

祈りの規則が信仰の規則を定める

聖ケレスティヌス1世教皇

(教会の典礼は真の信仰を保つ為及び解釈する為の最も効果的な方法である)

Age quod agis

今していることをせよ

祈りの時に、注意力を損なう事のない様に、唯一つの事(祈り)に集中する事が大切であると言う意味。

 

トップページに戻る

inserted by FC2 system